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ゼロ戦と日本刀 美しさに潜む「失敗の本質」

ゼロ戦と日本刀 美しさに潜む「失敗の本質」

株式会社PHP研究所
2013年12月27日発行
著者:百田尚樹・渡部昇一

を読みました。

映画「永遠のゼロ」がヒットしているようですね。
私は約2年前に、この「永遠のゼロ」という本を読んで感動しましたが、今回「ゼロ戦と日本刀 美しさに潜む失敗の本質」という本を読んで、ますます、大東亜戦争についての認識が深まった気がします。

映画を見た人もそうでない人も、是非一度この本をご覧になって、戦争についての認識を深めて欲しいと思います。

私の場合は、かなり自虐史観から離れつつあると思っていますが、逆に、旧日本軍の反省すべき点(=日本の弱点)についての認識が甘かったように感じました。この本は、その日本の弱点も、美しくも脆い日本刀の姿になぞらえて解説したもので、話が具体的で読みやすく、歴史認識も深まる、なかなかの良書だと思います。

この本の、まえがきと、内容の一部分をメモとして掲載しますので、ご参考にして下さい。


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まえがき 奇跡の戦闘機が教えてくれたこと

百田尚樹

 渡部昇一先生とは月刊誌『Voice』誌上で三度対談させていただきました。

 対談テーマは「ゼロ戦(零戦、零式艦上戦闘機)」に始まり、「大東亜戦争」さらに「戦後の復興」や「これからの日本」についてなど、多岐にわたるものでした。しかし一貫してあった大きなテーマは、「日本人とは何か」ということで、毎回、非常にスリリングな対談となりました。渡部先生は御年八十歳を超えているとはとても思えない気力横溢な方で、その博学、洞察力に毎回おおいに刺激を受け、また勉強になりました。

 さて、「日本人とは何か」を考える意味で、日本の歴史上の最大の戦いであった大東亜戦争をつぶさに検討することは大変に重要なことです。日本海軍は広い太平洋で何度もアメリカ海軍と戦いました。勝利した戦いもあれば敗れた戦いもあります。それらを見ていくと、そこには単に戦術だけではない、「国民性」が見えてきます。

 じつは二国が総力を挙げて戦う「戦争」は、しばしばその国(と国民)のもつ長所と短所が露骨な形で現れます。戦術、戦略、兵器、用兵-これらに、その国民性が如実に出るのです。

 その意味で、「ゼロ戦」という戦闘機は、まさしく日本と日本人を象徴する飛行機だったといえます。

 完成した当時は、速度、旋回性、航続距離とも世界最高水準の性能をもち、二〇ミリ機銃を備えた破壊力は群を抜いていました。飛行機の設計は非常にデリケートなもので、速度を重視すると旋回性が犠牲にされ、逆に旋回性を重視すると速度が落ちます。したがってどちらを重視するかということが、設計思想に現れるのですが、驚いたことに零戦は、本来矛盾する両方を兼ね備えた奇跡の戦闘機として誕生したのです。しかし考えてみれば、これは間違った設計思想といえるかもしれません。なぜなら一000馬力という欧米の戦闘機に比べても小さなエンジンしか搭載できなかった戦闘機が、そこまでの性能を発揮することは本来無理だったからです。しかしゼロ戦はそれを可能にしました。「防御力」をすべて犠牲にするという方法で。

 「防御カをなくす」-これは同時代の各国の戦闘機の設計思想にはなかったものでした。ちなみにアメリカの戦闘機は、「パイロットの命を敵弾から守る」ということを非常に重視していました。攻撃力を犠牲にしても防御力を上げました。

 では、なぜゼロ戦には防御が施されなかったのか。別の言い方をすれば、なぜ防御力を犠牲にして攻撃力を選んだのか。じつはここに日本人の国民性があります。これらの話は、渡部先生との対論のなかでたっぷりと語っています。

 国民性が現れるということでは、大東亜戦争の個々の海戦についても同様です。

 勝利のなかにも長所と短所があり、また敗戦のなかにも長所と短所がありました。戦術も用兵もアメリカ軍とは根本的な思想の違いがありました。また限定された戦闘における戦術だけではなく、大きな戦略においても同様です。いや、むしろ戦略眼こそ、もっとも国民性が現れる部分かもしれません。

 これらのテーマにおいて渡部先生との対談は、じつに有意義なものでした。また大東亜戦争を検証することで、現代の日本の長所と短所も見えてきました。

 ところで、大東亜戦争が終わって六十八年が経ちました。六十八年というのはすごい年月です。ほぼ一つの世代が入れ替わる年月です。ちなみにソビエト連邦が誕生して崩壊するまで六十九年かかっています。一つの思想が消えるまでそれくらいの年月が必要ということかもしれません。

 しかし現在の日本が抱える諸問題の多くは、じつは六十八年前の敗戦に起因する部分が少なくありません。もっとはっきりと言えば、戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による七年間にも及ぶ占領政策が今も尾を引いているのです。GHQは日本人に「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)を施しました。これは日本人に「蹟罪意識」を植えつけることを目的としたものです。この洗脳は完全に成功し、日本人の多くが「自虐思想」をもつに至りました。残念なことに六十年以上経ったいまも、多くの日本人に根強く残っています。その意味では、ソビエト共産主義よりも強い思想を植えつけられたのかもしれません。

 対論の後半では、GHQが日本国民になした「洗脳教育」について語っています。

 この対論をお読みになった読者のみなさんが、日本人とは何かということを考えるきっかけとなり、また新しい日本について真剣に考えるヒントになれば、嬉しく思います。

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世界最高の戦闘機を牛で運ぶ

 百田 一流の職人しかつくれない美しいゼロ戦を生み出す名古屋の三菱工場の環境は劣悪でした。さらにひどいのは、工場の横に飛行場がないため、四〇キロ離れた岐阜の各務原飛行場まで運ぶ必要があったことです。しかもその道路は未舗装のまま。馬で引けば速いが、揺れが大きくなって、せっかく造ったゼロ戦に問題が生じるかもしれない。仕方がないから牛に引かせて、時速三キロ。一晩かけて各務原飛行場まで運び、そこから全国の航空基地へ飛ばしていました。この状態が一九四五年の終戦まで続いたのです。

 ただでさえ製作工程が多くて生産効率が低いのに、完成後の配備も非効率。誰が考えても、工場の横に飛行場をつくるか、飛行場の横に工場を建てるかするのが当然でしょう。それが無理でも、せめて道路は舗装すべきです。当時の道路舗装率が〇・九%とはいえ、前線ではゼロ戦の補給をいまかいまかと待ちかねているのですから。

 ところが、道路管理と飛行場管理の行政が縦割りのため別々で、工場管理は民間とすべてバラバラ。これが、日本という国の弱さの元凶だったのではないでしょうか。

 名刀であったはずのゼロ戦は、開戦二年目に入ると生産性に加えて質も落ちていきます。物資やエネルギーの不足はもちろん、発動機(エンジン)製造に不可欠な、一〇〇分の一ミリ単位で金属を正確に削る工作機械の消耗が進んだことが理由の一つ。その工作機械はアメリカ製なので、新たに調達することは不可能でした。日本はそのあてもないまま戦争していたのです。

 さらにいうと、日本的な平等主義のせいで、世界最高の戦闘機の部品をつくることができる一流の職人にも、平等に赤紙が来て兵隊に取られました。本当の意昧での、代わりの人材はいません。

 人手が足りなくなって、「地元の中学生でも呼んでこい」「女子挺身隊」だと数をかき集めて、美しくない粗悪なゼロ戦が製造されていきました。

 渡部 戦争に勝つためには、優れた兵器や軍事物資を開発生産して安定的に供給しなければならず、その全体最適を実現するための総合的なシステムが必要です。あの戦争では、その肝腎なことが見落とされていました。残念ですが、民度の低さといわざるをえません。

 その点、同じ敗戦国でもドイツは違いました。日本の戦中における国内総生産のピークは昭和十六(一九四こ年です。ミッドウェー海戦前、昭和十七(一九四二)年にはすでに落ちはじめていたのです。以降伸びることはありませんでした。一方、ドイツのピークは一九四四年です。ドイツ軍が東部戦線のスターリングラードで大敗を喫したのは一九四三年二月ですが、その後も国内経済は伸びていました。

 ドイツ経済と軍需産業を支え、戦争遂行可能なシステムのグランドデザインを描いたのはシュペーア軍需相です。建築家のシュペーアは、ナチス党大会会場の建築プロジェクトなどで発揮した計画・組織経営管理能力をヒトラーに認められ、一九四二年軍需省のトップに抜擢されました。産業界と関係省庁を巻き込んで部品の共通化などを実現し、生産体制の効率化を行いました。そして就任後半年で軍需物資の大幅増産を成し遂げたのです。

 シュペーアは、ヒトラーの後ろ盾を得て実質的には徴兵の権限まで握っていました。度重なる大敗で膨大な兵力が失われる時期まで、ドイツでは技術者、熟練工の兵役は免除されていたのです。兵器や軍需物資の生産に欠かせない「戦力」だったからです。ヒトラーが特別に撤退させなかったスターリングラードは例外として、食糧の供給が止まった軍隊はありません。日本車のように餓死者を出すようでは、アマチュアの戦争だということです。


資源のない国が人を大事にしなかった

 百田 昭和十七年の後半あたりから、ゼロ戦の戦いはさらに厳しさを増します。質か落ちたゼロ戦の弱点を新型機のグラマンが狙い撃ちしてくる。流れ弾一発でアウトですから、パイロットたちもさすがに「防弾板をつけてくれ」と要求します。燃料タンクも防弾用にしてほしいと、いろいろ注文する。

 しかし防弾板をつけたり燃料タンクを防弾用にして重くしたりすればするほど、ゼロ戦の性能も落ちていく。そこで、ゼロ戦の性能が多少落ちてもパイロットを守るべきか、性能を落とすことはまかりならんかで意見が分かれるのです。議論しているところで、参謀源田実が「うるさい」「余計なことはもう言うな」と。「要は撃たれなければよいのだろう。もっと頑張れ」。それで話は終わり。何の解決策も提示されないまま、精神論で問題が片づけられてしまったのです。パイロットの命を何だと思っているのでしょうか。

 以前、本田稔さんという歴戦のゼロ戦パイロットにお会いして話をうかがったことがあります。昭和十七(一九四二)年から十八年にかけて、ラバウルは「搭乗員の墓場」と呼ばれるほどの激戦を戦ってきました。本田さんはその激戦を生き残った搭乗員です。その本田さんが、ガダルカナル島から未帰還のパイロットは半分以上が撃墜ではなく、自ら墜落して亡くなったというのです。なぜでしょうか?

 じつは帰還中にパイロットが疲労のあまり睡魔に襲われ、意識を失ってしまうからです。帰路、横を飛んでいる僚機がスーッと高度を下げていく。ゼロ戦には無線がないから起こすこともできない。そうして命を失った戦友の姿を幾度も見たそうです。考えてみれば、片道三時間かけてガダルカナル島に着き、上空で十数分戦ったのち、再び三時間をかけて帰るというのは人間業ではありません。自動車でも、七時間近く一度もパーキングエリアに止まらずに運転を続ければ、体がガタガタになります。

 当時の空戦記録を調べると、通常で週二、三回、多いときは週に五回も出撃しています。二十歳前後から二十代後半の若いパイロットが中心だったとはいえ、三日連続で出撃などしたら、体力や集中力がもちません。

 本田さんはゼロ戦出撃時、ドライバーを持参したそうです。眠気が襲ってくると、ドライバーで自分の太腿を突く。ところが疲労が蓄積してくると、そんなものでは目が覚めない。どうするかというと、皮が破れたところにドライバーをねじ込んで、グリグリひねるのです。自分の足の肉をえぐって初めて目覚める。それで何とか無事に帰ってきたのだ、といいます。壮絶そのものです。


 敵機のアメリカ軍はどうだったかというと、アメリカ軍のパイロットは、ローテーションがきっちり決まっていました。一回出撃したら疲れるから、次の出撃まで何日か休みます。そのローテーションでIカ月かニカ月戦うと、いったん前線から引き揚げて、後方勤務になるのです。あと一週間必死で戦えば、後方勤務が待っていると思って、前線にいる間は死にもの狂いで戦います。疲労やストレスを軽減すると同時に、モチベーションを上げる手段でもあるわけです。

 ゼロ戦のパイロットは、昔のプロ野球のピッチャーみたいなものです。アメリカは先発で投げたら、次の登板まで必ず中四日休みます。それが日本の場合は、稲尾和久投手なんか先発、リリーフと毎日投げさせられました。肩が潰れるまで投げろと酷使されて、結局、短い選手生命を終えたのです。いまでも高校野球のピッチャーは甲子園の連投で潰れていきますからね。

 先ほどゼロ戦とグラマンを比べて、昭和十八年以降もキル・レシオの比率は、ほぼ同等を保っていたと言いました。にもかかわらず、パイロットの死亡率では日本側が圧倒的に高かったのです。その理由の一つは、アメリカ軍のパイロットは乗機が撃墜されて海上などに不時着しても、潜水艦や飛行艇によって救助されるシステムがあったからです。

 一方、日本軍の場合、そうした救助の仕組みは皆無でした。撃墜イコール死を意味していたのです。エンジン・トラブルなどで海上に不時着しても救助の見込みがなく、フカに喰われてしまうこともありました。優秀な搭乗員を多数死なせてしまったのです。とてもやりきれない思いがします。

 渡部 そうした実態を知っていたはずなのに、連日、下士官に出撃命令を出していた上官たちは、真の意味で堕落していたというべきです。百田さんは彼らの思いを『永遠のO』のなかで、主人公の一人であるゼロ戦パイロットにこう語らせていますね。

 「八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断は出来ない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で、八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。八時間も飛べる飛行機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか」

 百田 ラバウル航空隊について調べると、とくに歴戦の搭乗員が何度も発進しています。経験の浅いパイロットは撃墜される可能性が高いけれども、歴戦のパイロットは簡単に墜ちない。つまり人よりも飛行機が大事という発想のもとで、優秀なパイロットが出撃を繰り返し、命を落としていったのです。日本海軍はとことん人間を大事にしませんでした。資源のない国が、モノを大事にして人を大事にしなかったことが敗戦を招いた、といってもよいでしょう。

 日本海軍の思想は攻撃一辺倒で、敵軍に攻撃を受けたらどう対処するか、という発想がもともとなかったのです。これは現在の有事立法にも通じる問題ではないでしょうか。他国から攻撃を受けることは考えない、ネガティブな状況ははじめから想定しない、という空気があって、予防の議論に至らないのです。いうなれば言霊主義みたいなものです。結婚式で「切れる、別れる」を使わない、受験生に「落ちる」といわないという忌み言葉と一緒です。しかし戦争に敗れれば即、国が滅びるわけですから、万が一を考えずにはおれません。



明治維新以上の歴史的事件

 百田 戦後生まれの若い人ほど、祖父たちの世代の戦いぶりを知って驚く傾向かあります。われわれは義務教育であらゆる科目を習いますが、欠けているのが近代史の知識です。とくに大東亜戦争については、まったく教えられていない。あの戦争は、明治維新よりもはるかに重大な意味をもつ「歴史的事件」です。わずか四年の戦争で日本は、民間人を含めて三〇〇万人もの人命を失ったのですから。

 戦場では、二三〇万人もの兵士が命を失い、そのうち大正生まれの世代が二〇〇万人を占めました。大正世代の男子は約一四〇〇万人だったから、七人に一人が亡くなったことになります。大正後半生まれの二十代前半から中盤の男子に限れば、おそらく三人か四人に一人は戦場で命を落としたのではないでしょうか。これからの日本を背負って立つ若者のおびただしい数の命が、あの戦争で失われたのです。

 失ったのは、日本人の命だけではありません。アメリカの空襲で、東京、大阪、名古屋、北九州などの国土が一面の焼け野原と化し、半世紀以上かかって築き上げた海外のインフラ、工場や店舗、投下した資本などが全部没収された。まさにあの戦争は、国が滅ぶかどうかの大事件だったのです。われわれ日本人が、率先して学ばないでどうするのか。

 渡部 非戦闘員への非道な爆撃は、日本人という人種への偏見に基づいた大量殺戮であり、ホロコーストと呼ぶべきものです。ホロコーストの原義は、ギリシア語で「(宗数的供物として獣を)燃やす」という意味で、東京大空襲は文字どおりこれに該当します。これは民族絶滅思想(genocide ジェノサイド)に基づくものとして批判すべきです。

 ですから私は、自分の蔵書カタログを英語で出版したとき、序文に書歴を中心とした自伝を書き、文中で東京大空襲について「ホロコーストされた市(the Holocausted City)」と記しました。フランス国立図書館内に本部をもつ古書学会の機関誌に掲載されましたから、日本が受けたホロコーストの事実は、本好きの間では世界的に広まっていると思います。広島と長崎への原爆投下だけが語られがちですが、本土空襲の焼け方を見ると、地方でも似たような爆撃を受けていることがわかります。

 百田 戦争末期、わが国の防空戦闘機は底を突いており、米軍のB29が無防備の本土に跳梁していました。夜間に低空飛行で東京上空を通過し、いったん千葉の房総沖に抜けていく。防空壕に避難していた人びとは空襲警報が解除されると、ひとまず外に出て帰路に就く。その頃合いを見計らったかのように米軍機がUターンしてきて、爆撃を始めるのです。米軍の爆撃の仕方は非道そのもので、四方を爆撃して中央に避難させ、そこにまた爆弾を落とすということをやった。人をどうやって効率的に殺すかを考え抜いた結果です。

 米軍はアメリカ国内の砂漠に日本の街並みを再現し、日本の家屋の効果的な破壊方法を研究することまでやっていました。正確な再現のため、ハワイから日系移民の畳職人や襖職人まで連れてきた。そしてどの焼夷弾、爆撃法を使えばもっともよく燃えるかを試したのです。大空襲は五度でしたが、東京への空襲は一〇〇回以上に及びました。


 以前、ツイッターで東京大空襲についてつぶやいたことがあります。米軍は東京を五度、(大規模)爆撃しましたが、昭和二十(一九四五)年三月十日の一度目がもっとも悲惨でした。無事の民を一夜にして一〇万人も殺傷した。そのように書いたところ、驚いたことに「アメリカにそこまでさせた日本のほうが悪い」という書き込みが複数寄せられたのです。「日本がもっと早く降伏すれば、空襲はなかった」「頑強に抵抗したのが間違い」という趣旨のコメントを見て、私は絶句するほかなかった。終戦をどう図るかという問題と、非戦闘員への大虐殺はまったく別次元の問題です。因果関係を論じること自体がおかしいでしょう。

 渡部 『永遠のO』には、朝日新聞の記者をモデルにしたと思われる人物が登場します。彼は、自爆テロのテロリストと神風特攻隊員は何も変わらない、狂信的な愛国主義者だという持論を展開していました。いくら当事者が、元特攻隊員が、それは違うと否定しても、自分こそが正義と信じて、頑として考え方を変えようとしない。ツイッターのコメントの話を聞いて、このくだりを思い出しました。精神構造がまったく同じです。自爆テロは市民を殺しますが、特攻機は敵の軍艦のみを目的とします。形は似ていますが、本質はまったく違います。


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オランダのインドネシア植民地支配の動画


第2次世界大戦で日本が果たした最も重要な事は、欧米の植民地支配から東南アジアを開放した事でしょう。これは本当に偉大な功績です。

日本は戦争に負けましたが、欧米列強による植民地支配という時代を終わらせました。

もし日本が戦わなければ、今も東南アジアは欧米列強の植民地支配が続いていたかもしれないのです・・・


この動画は、オランダに350年支配されてたインドネシアの植民地支配の実態です

間接統治という狡猾な植民地支配について、わかり易く解説されていますので、是非ご覧下さい。

また、最後に、オランダのアムステルダム市長で、その後オランダの内務大臣に選ばれたエドゥアルト・ヴァン・テ­ィンさんの「アムステルダムの光芒【照らされた日本の誇り】」という感動的な話などもありますので、こちらも是非ご覧下さい・・・



オランダに350年支配されてたインドネシアを、日本軍が9日間で解放


欧州列強は世界各地の植民地支配を安定して行うために色々な政策を行った

次の5つはオランダがインドネシア植民地運営で行ったものである

1.東インド植民地政府はオランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民を文盲のままにして各地の土候(サルタン)を使って間接統治した。徹底した愚民政策をしいたのである


2.才知にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用。
そして、オランダとインドネシアの混血児を作り中間階級として使い、民族の分断を策した。


3.社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア人の憤慨と憎悪は華僑に集まるように仕向けた。


4.インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。3人のインドネシア人が立ち話することすらゆるされず、金を犯せば反乱罪で処罰された


5.インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった


■欧州列強による植民地時代の終焉

1941年12月8日。太平洋戦争勃発。
日本軍はアジアの解放と戦争継続のための戦略資源獲得のために、ヨーロッパ各国が支配するアジア植民地へ進行を開始。

日本政府はできればオランダ領東インドへの無欠進駐を実現したいと考え、1941年12月8日の大東亜戦争宣戦の詔書でもオランダを交戦国から除いていた。

しかし、オランダ政府は12月10日に日本政府に対して「オランダと密接不可分の関係にある米英両国に対し先端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告

それでも日本政府は、改選意向のマレー半島や香港での有利な戦況を背景として、オランダ政府に対してスイス経由で工作を行ったが、オランダ政府は進駐を拒絶

1942年1月11日、日本軍はオランダ領のタラカンとメナドへの進行を開始し、翌12日、日本政府は「日蘭間に戦争状態が存在するに至った」旨の声明を発した。

わずか10日ほどの戦闘の後、オランダ東インド植民地軍は全面降伏し、以後、東インド全域は日本の軍政下におかれた。
「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。


しかし、インドネシア現地人達に再び試練が訪れた。
第二次世界大戦終結後、植民地支配の味をしめたオランダは1947年7月21日と1948年12月19日に2度にわたって、インドネシア共和国に軍事侵攻。

武装解除していた日本軍からは3万丁以上の歩兵銃、数百の野砲・トラック・軽戦車、食料、弾薬、軍刀など多くの武器弾薬が独立派の手に渡った。

日本軍政下にてアジア民族自立の意識を軍事教練を受けたインドネシア人達は「ムルデカ(独立)」を合言葉にオランダ軍に勇敢に抵抗。

加えて日本に引き揚げずに独立派に身を投じた元日本兵数千人が参戦。

予想以上の抵抗と混乱、そして国際的圧力により、オランダは東インドの再植民地化を断念。

1949年、インドネシアは独立を果たした

太平洋戦争を境に、世界各地で民族自立の独立運動が激化、欧米列強が一方的にアジア、南米、アフリカなどの植民地から富を吸い上げる時代は終わりを告げた。


■オランダ市長の話

アムステルダムの光芒【照らされた日本の誇り】


アムステルダム市長で、その後オランダの内務大臣に選ばれたエドゥアルト・ヴァン・テ­ィン(Eduard van Thijn)氏の言葉です。(日本ではよく、「サンティン」と誤って呼ばれています)

アジア諸国だけでなく、戦勝国側でも、大東亜戦争における日本の正当性を認める声が上­がります。

現在、日本に謝罪と賠償を求めているのは、日本と戦っていない中華人民共和­国(中国共産党)と韓国、北朝鮮の3か国だけです。

世界の教養ある人から見れば、日本­の「私たち日本が悪でした」という自虐史観は異常に思えるのでしょう。もうこのGHQ­に押し付けられた嘘だらけの自虐史観を捨てて、真の誇りを取り戻しましょう!【拡散希­望】

光芒(こうぼう)とは、雲の切れ間から太陽の光が線になって差し込む現象です。


インドネシア独立戦争と日本軍の貢献

■インドネシア独立戦争と日本軍の貢献


■インドネシアの侍


日本の古代文字:ヲシテ文字



日本には、漢字伝来前に、独自の古代文字があったようです
その中のヲシテ文字という文字につての動画が桜チャンネルにありました

その文字で書かれた文献を調査してみると、古事記・日本書紀を漢字に翻訳する前の原書であると考えたほうが辻褄があうようで、記紀原書といわれる・・・非常に興味深い内容です


















マッカーサーは慰安婦がお好き 高山正之 著


週刊新潮」に連載されている超辛口の名物コラム「変見自在」の第8弾『マッカーサーは慰安婦がお好き』ですが、内容はめちゃくちゃ面白くてためになります。単なる批評ではなく、正確な知識に裏打ちされ、また記者としての現場体験も合わさり、本当に鋭い批評です。

エッセイですので、一話一話完結しており読み易いですし、知らず知らずに世界の中の日本の位置付け、正しいものの見方にも気づかされます。

なお、前7作は「サダム・フセインは偉かった」「スーチー女史は善人か」「ジョージ・プッシュが日本を救った」「オバマ大統領は黒人か」「偉人リンカーンは奴隷好き」「サンデルよ、「正義」を教えよう」「日本よ、カダフィ大佐に学べ」です

まえがき、目次、(自分のメモとして)一部だけ抜粋掲載させていただきます。下手な感想よりも、一部だけでもそのまま掲載したほうが、その内容を想像できると思いますのでご参考に。


 ーーーーーはじめに-ーーーー
外国信仰に凝り固まった記事に騙されるな


 ロサンゼルスの少し南、オレンジ郡タスティン高校の校庭でアジア系青年の刺殺体が見つかった。刺創は背中と胸に集中し、とくに心臓部は十四か所も刺されていた。凶器は肉厚の尖った肉切り包丁と推定された。

 警察はその執拗な殺害方法から二十四歳の被害者ティエンミン・リーに深い恨みを持つ者の犯行とみて捜査を始めた。

 リーは南ベトナムが落ちた後、ベトナムから脱出した、いわゆるボートピープルの一人だった。今は難関のカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院に進学を果たし、将来は米国務省に入り、米国大使になって祖国ベトナムに凱旋する夢を持っていた。犯行のあった夜は勉強に疲れ、ローラーブレードで一大汗を流しているところを襲われている。

 そんな生真面目な青年の周辺から怨恨の線は出てこなかった。捜査は難航したが、当局に届けられた一通の手紙から事件は一挙に解決した。手紙の差出人は犯行現場のほど近くに住む二十一歳の白人ガンナー・リンドバーグ。ニュ-メキシコ州の従弟に宛てた手紙の文面は「さっきジャップを殺してきた。心臓を二十回も剌した」と犯行を詳述していた。

 彼の自宅が捜索され、部屋から白人優越主義やアリアン(白人種)の復興を謳う冊子、ポスターなどが押収された。

 リンドバーグの供述から十七歳のドミニク・クリストファーも捕まった。白人であることしか取り柄のない二人は「白人の国家米国に跋扈するマイノリティに憤慨」し、あの晩たまたま一人でいた気弱そうなリ-を見つけた。

 勢いでリーを袋叩きにし、もがく被害者の背中をリンドバーグが肉切り包丁で剌した。ドミニクが「心臓もやれ」と囃し、瀕死のリーを仰向けにして左胸を執拗に刺した。リーとは面識もなかった。ただ「日本人が憎くて殺した」ことを認めた。

 当時、ロサンゼルス特派員だったが、この事件は引っかからなかった。「ヘイト・クライム(人種憎悪犯罪)」「ジャップをやった」というキーワードはずっとあと、州地裁がリンドバーグに死刑を宣した判決で知った。

 改めて経緯を調べた。人種民族が違う、それだけで見ず知らずの人間をここまで憎悪して切り刻めることに驚かされた。

 しかし、考えてみれば日本人は幾度となくリーと同じ体験をしてきた。本書で紹介した一九二八年に起きた済南事件もその一つだ。この山東省の商都には欧米各国人も居留していたが、蒋介石軍は日本人だけを探し出して暴行し凌辱した。うち十二人は目玉をえぐる、顔の皮を剥ぐ、腹を割く、屍姦するといった中国人特有の手口で殺害された。


 乳房を切られ、陰部を銃剣で剌された女性の検死写真が残るが、日本政府は「余りに残酷」ゆえに新聞掲載を禁じた。戦前戦後を通じて日本人が人種憎悪について意識を持たなかったのはこの配慮からだと思われる。因みにこの配慮を北京政府は逆手に取った。検死所見の写真を「満州七三一部隊の人体実験の写真」に仕立て、反日教材に載せ、日本糾弾の小道具に使う。彼らにまともは期待できない。

 そして通州事件だ。約一万の中国兵は未明に街を襲い、ここで日本人だけを狙い、丸一日かけて二百六十人を凌辱したうえ、いたぶり殺した。女はみな強姦され、果てに陰部に棒を突き立てられ殺された。子供は両手指を斬り落とされ、鼻や首に針金を通して広場に引き出して殺された。


 「中国人は笑いながら殺戮を実行した」という証言も残る。それは西安、青島で笑いながら日系企業に放火略奪する彼らの表情と似る。その前、浙江大で日本人留学生三十人が「笑う中国人学生」集団に屋上に追い詰められ、飛び降りを強要された。文革当時、鄧小平夫人卓琳が突き落とされ、半身不随になったのと同じやり方だ。彼らは変わっていない。

 これだけ日本人へのあからさまなヘイト・クライムを見せつけられながら、朝日新聞から 日経産経に至るまで「反日デモの熱気の正体は北京政府への不満と反感」とか馬鹿を言う。彼らが見せる危険な人種憎悪を伝えずに、なんで彼らの心を勝手に斟酌するのか。

 日本の新聞に現れる中国報道はまだ米国報道よりはましだと言われてきた。米国からの報道は「米国は民主主義の聖地」で、なんでも日本人より上等と思い込んだ特派員が記事を書いている。オバマがTPPを言えばどの新聞もそろって賛成するのはそれを書く特派員がみなオバマの言葉を神の言葉と信じているからだ。

 神のお言葉に逆らうTPP反対記事があり得るわけもない。
 そこまで歪んだ米国報道に比べたらまだ北京からの報道はましだが、それでも中国語を喋る彼らにもどこか、ワシントン特派員と似た「習近平は神様」的心情がある。

 中国人は危ない。中国への投資などとんでもない。あんなところに妻子を連れて赴任する者の気がしれない。今度、何かあれば日本人駐在員の妻はみな強姦され陰部に棒を突き立てられる。彼らの子どもたちは両の手の指を切り落とされ、鼻に針金を通され、天安門前に引き出されて殺される。

 歴史がそう語っている。しかし北京特派員はそうは書かない。あの反日デモを見ても「いや彼らは日本人が憎いのでない。北京政府が憎いはずだ」と彼らの希望的観測で済ます。

 こんな危ない中国人をなぜ弁護するのか。
中国人が改心した、日本人への人種憎悪を改めたというなら、彼らがその証拠を示し、立証すればいい。それまで日本人のために警告を発し続けるのが新聞の役目だろう。

 ニューヨークタイムズの国際版インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙アジア版はほとんど中国向けに編集されている。

 その紙面がここ一年ですっかり様変わりした。一面に堂々「ティフアニー、中国でなくカンボジアを選ぶ」とか米企業がさっさと中国大陸を離れようとしている状況を伝える。

 北京の大気汚染PM2.5の危険をいち早く告発したのも米大使館の屋上計測器であり、それを一面で大々的に報じたのはヘラルド・トリビューンだった。米国はかつて「二〇三〇年代、中国が米国を抜く大国になる」と予測した。今は誰も信じる者はいない。

 日本の新聞に偏され、中国から足抜きもできなくなった日本人の悲劇がところどころから漏れ聞こえてくる。

 そうした悲劇を避けるためにも、そして外国信仰という、特有の心根に縛られる新聞が伝えないホントのことを本書で少しでも知ってもらえれば、幸せである。
二〇一三年初夏  高山正之


ーーーーーー目次(赤字は文章掲載あり)ーーーーーーー

はじめに-外国信仰に凝り固まった記事に騙されるな-

第一章 米国がこんなに酷いとは

   日本の戦争映画がダメな理由  
   米大統領選も視点を変えれば面白い   
   日本叩きのルーツは米国にある
   そして誰も朝日を読まなくなった  
   HIV根絶に欠かせない小さなリング
   鳥インフルは米軍の新兵器  
   中国よ「あった」というのなら証拠を出せ
   中国が唯一、逆らわない相手   
   孫文を英雄視するのは止めろ   
   米大統領はヤクザがお好き   

第二章 きちんと伝わらない「真実」の数々

   「市民」ほどウサン臭いものはない 
   原発「安全神話」を作り上げた朝日の責任
   偽善宗教を日本は受け入れない 
   日本人の妻は世界一、恵まれている?
   日中戦争は「日米戦争」だった
   キューバがHIVを制圧した理由 
   密告者には正義感も清潔感もいらない 
   ロシアは何度も日本に潰されている 
   戦争被害をカネに変えるな
   非道国家が原子力を手に入れると……  

第三章 中国には強い態度で臨むべし

   刺青は野蛮な白人のステータス  
   地震が怖くて日本に住めるか!
   米国のウソをヒロシマは忘れない  
   オスプレイ問題に隠された米国の本音  
   デッチ上げ人生を歩むス-チー女史の後ろ盾
   シリアで日本人女性記者が殺された理由
   ウソつき特派員は国へ帰れ!
   本当の「維新」とは何か 
   民主党政権、本当の「死因」
   最も効果的な「中国人取扱方法

第四章 新聞記事は疑ってかかれ

   白人はこんなに劣っている 
   日本人特派員よ記者の誇りを持て  
   性悪国家はこうして伝染る 
   米兵暴行事件には歴史的ルーツがある
   いっそ「香港型中国人」に改良したら
   戦争中の国よりコワい場所 
   世界で評判を下げる「スシ」の現状
   歴史オンチはこうして恥をかく 
   中国航空会社は値段以上に「命」が安い

第五章 歴史を知れば本質が見えてくる

   これでも中国人留学生を受け入れる?
   デマはこうして創られる 
   国際報道の要諦は人種問題 
   味覚オンチ国家が仕切るTPPのワナ
   「白い評価」は全くアテにならない 
   中東の「日本敵視」はウソ  
   伴天運追放令を正しく知っていますか?
   韓国大統領は親子二代で日本にタカる
   ”航空ニッポン”は永久に不滅  
   中国人を見たら犯罪のデパートと思うべし


日本叩きのルーツは米国にある

 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は一九四三年末、蒋介石を呼んでカイロで会談を開いた。

 中国が白人国家側に寝返って日本の足を引っ張った、その論功に金一封をやろうというのが会談の趣旨だった。

 加えて彼の母は中国の阿片貿易で大儲けしたデラノ家の娘だった。
 その蹟罪気分もあって満州もやろう、台湾もやろう。望むなら仏印も香港も取り返してやってもいいと蒋に持ちかけている。

 実際、FDRはオリバー・スタンリー英植民地相に「香港はまともに買ったのではないはずだが」(クリストファー・ソーン「米英にとっての太平洋戦争」)と咎めてもいる。
 スタンリーは「ええ、米国がメキシコ領土を脅し取ったのと同じ手口で」とぴしゃり言い返している。

 米大統領はこのカイロ会談にもう一つ仕掛けをした。それが「奴隷状態にある朝鮮」という一語だ
 奴隷は米国の専売特許だ。黒人や苦力からヒスパニックまで使ってきた。
 日本に奴隷はない。江戸時代に来たツュンベリーは奴隷を使うオランダ人を心から軽蔑する日本人を描いている。
 ヘンなことを言うと蒋は厨ったが、チヤーチルは理解できた。奴隷も知らない高貴な日本を奴隷国家米国が偉そうに戦後処理できるか。嘘でもいい、日本を奴隷国家に仕立てちまえというFDRの本心を。

 案の定、彼は翌年夏にも「アジアの民は日本の奴隷になることを望まない」と声明を出した。
 そして終戦。米国はいち早く「奴隷・朝鮮の解放」を宣言し、二百万在日にも、もう自由の身だ、国に帰れるとキョトンとする彼らをどしどし送還した。
 送還を拒んだ六十万人にはGHQの指導で「在日朝鮮人連盟」が結成され、「我々は日本から搾取と奴隷的差別を受けた。解放されたいま我々は連合国人になった」と宣言させた。

 連合国人とは日本での治外法権を意味し、不逮捕特権も付いていた。
 加えてマッカーサーは新聞に連合国人の犯罪を伏せるよう命令していた
 つまりGHQ公認で犯罪ができた。在日は喜んだ


 すぐ事件が起きた。満員の汽車に数人の朝鮮人が窓を割って乗り込もうとしたのを乗客が注意した。朝鮮人は彼を直江津駅ホームに引きずり出してスコップで殴り殺した。警察は手も出せなかった。

 朝鮮人犯罪を報道した新潟日報社が襲撃され、ついには首相官邸も襲われた。
 彼らはあの食糧難時代に一人で百人分の配給米を要求した。断れば殴る蹴る。
 そうやって集めた米で密造酒を造った。川崎市で密造酒手入れをした税務署員が報復で殺される事件もあった。
 彼らは儲けた金で不法占拠した駅前一等地にパチンコ屋を建てた。そんなうまい話があるのかと戦後に渡ってきた朝鮮人は多かった。孫正義の父もそのT人だった。

 吉田茂は思い余ってマッカーサーに「全朝鮮人の強制送還」を頼んだが、彼は無視した。
 翌年、朝鮮戦争が起きてマッカーサーは日本に再軍備して戦えと命じたが、今度は吉田が拒否した。

 しかし講和条約後もFDRのこしらえた「朝鮮の奴隷支配」の嘘は生き残った。朝日新聞の努力が大きかった。
 奴隷支配の罪滅ぼしに在日の犯罪者に不利な「指紋押捺を廃止せよ」と騒いだのも朝日だった。

 同級の植村隆は「日本軍は朝鮮女性を徴発して従軍慰安婦にした」という真っ赤な嘘を書いてFDRの朝鮮人奴隷説を半世紀ぶりに補強した。
 日本は男を奴隷にし、女を性の奴隷にしたと。
 米ニュージヤージー州で先日、慰安婦を追悼する碑が建てられ、地元の市長も参列して犠牲になった二十万人の朝鮮女性を悼み、ついでに日本を呪った。

 同じころ、バーージニア州議会で日本海を朝鮮風に東海と呼べという法案があわや成立するところだった。
 少し前には朝鮮人の残忍さを背景にした「ヨーコ物語」が米国の副読本から外されている。
 日本の新聞は「なんで日本の正しさを米国が理解しないのか」と首を傾げる。
 日本を悪く言う元凶が米国だとなぜ気づかない。
                          (二〇一二年二月十六日号)


日中戦争は「日米戦争」だった

 米国は十九世紀末、日本封じ込めの一環としてフィリピンを植民地にした。
 米国支配を嫌う原住民はみな殺しにした。米国の自己申告では「殺した地元民は二十万人くらい」(上院公聴会)という。


 米国は恐怖で屈服させたフィリピン人に今度は銃を持たせて訓練した。日本軍がきたとき彼らを米兵の盾にして戦わせるためだった。

 四十年後、予想通り日本車四万余がリンガエン湾に上陸した。マッカーサー以下三万人の米軍は十二万人の現地兵を盾に戦ったが、殲滅されてしまった。

 この戦いを日本車は「米軍と戦った」と記録する。戦ったのは半分以上現地兵だったが、「フィリピンと戦った」意識はない。


 マレー半島では日本車は英印軍十万をやっつけてシンガポールを落とした。
 この戦いも日本はあくまで英国と戦った。英軍の前衛はインド兵だが、インドと戦ったつもりはない。

 日本は中国大陸でも戦った。そこの中国人とはかつて日清戦争で戦った。
 その後は彼らを日本に留学させ、国造りを支援したが、あるときから彼らは反抗的になった。なぜかは中国だけ見ていても分からない。

 たとえば米国を見る。この国は日本が日露戦争に勝つとすぐ北京に清華大を建て、日本に流れる留学生を顎足つきで米国に誘った。

 米国から戻ってきた留学生は蒋介石につき、米国の意向に沿った反日政策を遂行した。
 孔祥煕や胡適がその代表格で、とくに胡適は「米国を引き込め」と盛んに蒋介石に吹き込んでいる。

 日本を潰さないとアジアの利権が危うくなると欧米諸国は認識していた
 それでドイツは中国陸軍を強くして日本にぶつけた。それが第二次上海事変だ。
 米国は中国に空軍を持たせて日本を叩くことを考えた。操縦は難しいが、歩兵がやっとのフィリピン人よりまだ中国人は使えると思ったからだ。
 で、第一次上海事変直後に米国は抗州に飛行学校を作り、教官にクレア・シェンノートらを派遣した。
 その成果が第二次上海事変だった。日本軍はドイツ製の火器やトーチカ群にてこずったが所詮、中国軍は中国軍だった。二十倍の兵力でも殲滅されてしまった。

 米国が養成した中国空軍はもっとお粗末だった。黄浦江にいた巡洋艦「出雲」をカーチス・ホークHとノー・スロップ爆撃機で襲わせたが、三機が撃墜され、二機は「出雲の弾幕が怖くて」(ジョン・パウェル『在支二十五年』)適当に爆弾を落とし、外灘にいた中国人ら数百人を殺した。

 ウースン付近では中国空軍機が英巡洋艦を間違って爆撃したが、この中にシェンノートもいて危うく撃ち落とされそうになったと自伝にある。
 中国人の操縦下手にルーズベルトも呆れ、米軍操縦士に中国人を装わせて飛行機を飛ばすことになる。世に言う「フライング・タイガー」がそれだ。

 そのころにはドイツが手を引き、米国が代わって中国地上軍の強化も担当した。つまりここもフィリピンと同じに米国が装備から訓練まで面倒見て、中国兵を米軍の代りに日本軍と戦わせた。

 それが見える形になったのが援蒋ルートの要衝、龍陵の攻防戦だった。
 そこで戦った五十三師団の平田敏夫と現地を歩いた。
 「中国兵は三日攻撃し三日休んだ。指揮する米兵の休暇に合わせていた」「二万の中国兵が我々の守る山に取りついた。十分引き付けて撃った。見る間に彼らは死体の山を築いた

 浮足立つ中国兵に後方から米兵の「突っ込め」という声が聞こえ、軽機銃の発射音が続いた。督戦隊が逃げる兵を撃つ音だった。
 霞が晴れたとき、遠くに白マント姿の米兵を平田は見た。「米兵は一個中隊に一人がついていた。中国兵はほとんど子供だった」。

 米軍は子供でも鉄砲は撃てることを知っていた。
 龍陵にはここで戦死した米兵二十八人を祀る記念館があり、息子ブッシュの「日本と戦った中国との友情」を謳う手紙が飾られていた。

 中国で日本は米国と戦った。蒋介石も毛沢東も単に現地兵の万人だったのだ。
                    (二〇一二年五月三十一日号)



戦争被害をカネに変えるな


 新橋駅から虎ノ門方向に少し下った赤レンガ通りにインドネシア料理の店「インドネシア・ラヤ」があった。
 少し前に九十二歳で鬼籍に入った中島慎三郎の店だ。あるいは外務省の官僚のだれよりアジアに精通した人と言った方がいいか。

 彼に誘われて一緒に行った先にインドネシア大統領が待っていたこともあった。
 その折に「彼も偉くなる」と紹介されたのが今の大統領ユドヨノだった。
 それだけ顔が広く、かつ信頼されていたのは彼が皇軍の兵士だったからだ。

 応召は昭和十四年。三軒茶屋の野砲連隊に入り、翌年はもう中国戦線にいた。
 南京を捨てた蒋介石車は光江に逃げ、街を丸ごと接収し糧食を奪った。人々は自分の街で難民になった。
 日本軍が迫ると中国兵は「長江の堤防を切り」「井戸にペスト菌をまいて」(石用達三『武漢作戦』)逃げていった。

 日本車は街の人々にコメを分け、堤防を直し、井戸水を浄化してから蒋の軍勢を追った。
中島はその防疫作戦を担当していた。
 部隊はその後、南寧を落として北部仏印に進駐した。
 米国は蒋介石を抱き込んで日本軍と戦わせた。そのための武器弾薬をビルマ側から送り込んでいた。

 これがいわゆる援蒋ルートで、仏印進駐はそれを潰すための行動だった。
 仏印で中島は街ごとにギロチンを見た。子供にも人頭税を課して働かせるフランス人の残忍さも目撃した。
自分の国を取り戻したいというベトナム人愛国者、安国桂や陳中立に会ったのもこのときだった。

 日本と仏ビシー政府は一応友好国同士。彼らに表立って支援はできないので鹵獲(ろかく)した武器を野積みにして彼らに盗ませた。
 その武器を手に二千人が決起しフランス正規車と戦い、そして全滅した。ベトナムの教科書が対仏独立闘争の最初を飾る「戦争」として今に伝えている。
 中島は彼らへの違法な武器供与がばれて営倉に入れられたが、「上官も思いは同じですぐ放免された」。

 開戦後はマレー、ジャワ作戦に参加した。八万のオランダ軍はバンドン要塞に龍ったが日本軍八百人が攻めると「九日目に降伏した。黄色と戦って死んでも犬死。のんびり捕虜でと彼らは考えていた」。

 戦後、虐待されたと言い出し、日本兵を大量処刑したのは「戦わず降伏した臆病さを隠すためだった。彼らほどの卑劣漢はいない」。

 日本はインドネシアを解放すると学校を建て、ジャカルタ語を標準語にして教えた。インドネシア人の軍隊(PETA)も作った。

 共通語を待った彼らは初めて守るべき祖国を自覚し、「戦後、戻ってきたオランダ軍と四年間も戦い続けて独立を勝ち取った」。


 中島はシンガポールで終戦を迎え、昭和二十一年夏に復員した。
 上官の遺品を届けるため東京・下町の実家を訪ねた。一面の焼け野原だった。
 上官の遺族から米軍の東京空襲の話を聞いた。三百二十五機のB29が低空で進入し下町を包むように焼夷弾を落とし、人々が三ツ目通りに集まると、黄燐弾を降らせて生きながら十万人を焼き殺した。「小名木川と横堀川は熱湯でした」と遺族は語った。

 「六年間いろいろ戦場を見た。中国人もオランダ人も醜かった。しかしこれほど醜く残虐な戦場は初めてだった」「ここには今も十万人の怨霊が彷徨う。百年先でもいい。米国を焼け野原にし、米国人十万人を焼き殺さねばこの怨霊は消えない」(中島慎三郎「元兵隊の日記」)

 百年の最初の二十年が過ぎたとき、日本政府は東京空襲の指揮を執ったカーチス・ルメイに旭日天授章を授与した。
 「米国の無差別殺戮に謝罪も賠償も要求しないことを形にしろとジョンソン大統領が要求したからだ。旭日天綬章は天皇の親授になるが、このとき陛下は拒絶された。


 百年の半分以上を過ぎた先日、「国は空襲の死者に百万円を支給する」法案が出てきた。
原爆被害者だけがカネをもらうのはおかしいという主張か。
 あの戦争がもはやたかりの材料でしかなくなったとしたら悲しい。
                        (二〇一二年六月二十八日号)

米国のウソをヒロシマは忘れない   

 昭和十九年春、日本軍はビルマからインド東部インパールに進攻を始めた。
 狙いは二つ。中国への補給路、いわゆる援蒋ルートの起点ディマプールを叩く。
 併せて英国支配下のインド人を覚醒させ、独立を促すはずだった。

 しかし日本に時の利はなかった。発進地となるビルマのアウンサンは「インド人は英国の手先になってビルマを苛めてきたから」と協力を断ってきた。

 どころか、彼は敗勢の日本をとっくに見切って「英国側に内通していた」(ルイス・アレン『日本軍が銃をおいた日』)。

 戦力も不利だった。日本側は制空権もなく、加えてディマプールには米国の新鋭戦車M4までもが続々送り込まれ、貧相な装備の日本軍を待ち受けていた。

 それでも八万将兵はチンドウィン川を渡り、コヒマ、インパールを攻めた。

 M4戦車は日本の対戦車砲弾を弾き返し、急な山の斜面も駆け上かって塹壕に寵る日本兵をキャタピラでミンチにした。

 激戦地の一つミッションヒルでは英軍機が野戦病院にまで銃撃を加えた。
 地上の英印軍が生き残った者を担架ごと運びだし道路に並べた。

 英軍将校が検分し、士官クラスを見つけるとトラックの上に運ばせた。

 「捕虜として尋問するのだろう。残りはと見るとグルカ兵が担架にガソリンをかけて点火した。一瞬火が走り、悲鳴が上がった」(伊藤桂一 「遥かなインパール」)

 トラックで運ばれた日本軍士官のその後は分かっていない。尋問された後、やはりガソリンをかけられ焼き殺されたのだろうか。

 彼らの消息について九〇年代、バングラデシュのチッタゴンで地元紙「アザデ」の主筆ムハマドーハレドからあるいはと思われる話を聞いた。

 「小学生のころあの戦争があった」という主筆は街の上を飛んでいく日本軍機に手を振り、撒いていったビラも「大事に隠し持っていた」という。

 バングラデシュはベンガル人の国という意味だ。彼らはインド人に、さらにその上の英国人にも好きにいたぶられた。日本軍はその地獄から解放してくれると信じられていた。

 飛んできたのはアキャブに進出した加藤隼戦闘隊だろう。戦史叢書には偵察飛行の折に宣撫ビラを撒いたとある。

 それほど心待ちした日本軍はついにこなかったが、戦争末期「日本軍の捕虜が後送されてこの地で亡くなった」という。

 どこの戦場かは不明だが、チッタゴンはインパールとは直線にして三百五十キロほど。あのトラックがここにきた可能性は高い。

 日本兵の遺体処理を任された父たちは「英印軍墓地の一角に埋葬した」と。

 墓地を訪ねると階段状に墓石が並ぶ最上段の「陽の昇る側」に二十五本の墓標が並んでいた。遺品の片仮名をなぞったらしい仮名文字がその上に刻まれていた。

 「我々が日本軍にできたのはそれだけだった」

 ずっとあと、ベンガル人が自分たちの国を立ち上げたころ、ポール・チベッツが講演にきた。広島に原爆を投下したエノラゲイの機長だった男だ。

 「日本人十万人を殺した。それが自慢の男の来訪に私の新聞は反対した。他の新聞もそれに倣い、チベッツは講演もしないで帰って行った」。新聞人なら当たり前のことだと主筆は言った。

 チベッツに原爆を投下させたのはトルーマンだ。彼はやむを得ない選択と言いながら、実験を兼ねて長崎にも別タイプのプルトニウム爆弾を落とした。

 嘘つき大統領について東京裁判判事のレーリンクは「彼は二十五世紀に宛てたタイムカプセルに「広島市民には投下前に三度も避難勧告をした」という大嘘を入れさせた。「米国の残虐さを隠すために」と著書で告発する。

 今年の原爆忌にそのトルーマンの孫クリフトン・トルーマン・ダニェルが来日する。
 日本の馬鹿なNGOが呼んだというが、呼ばれた孫はどの面下げて何をしゃべくりにくるのか。
 祖父の嘘を上塗りするだけなら、はっきり言おう。日本に来るな。

                       (二〇一二年八月九日号)


最も効果的な「中国人取扱方法」

 先日のヘラルド・トリビューン紙一面にインドネシアのアチェで行われた公開鞭打ち刑の写真がでかでかと載った。

 アチェでは七世紀の昔、イスラムの民がやったのと同じ刑罰が科される。
 写真の罪びとはコーランが禁じた賭博をやった。それで鞭打ち刑だ。これが姦通だったら石打ち刑で殺されるところだ。

 写真の隅には刑の執行に立ち会う二人の刑吏が写っている。ともに眉根を寄せ、こわばった顔には鞭打たれる男への憐れみもうかがえる。
 その少し前、同紙に未発表の文化革命期の写真が丸一ページ載っていた。ハルビンでの紅衛兵の糾弾集会や処刑される人々の最期の表情などが撮られていた。

 銃殺刑を前に肩を寄せ合う恋人同士を紅衛兵が引き離そうとする場面もある。
 その写真の隅に写る中国人たちはアチェと違ってみな楽しそうに見えた。
 紅衛兵の嫌がらせを面白がって笑顔も見せている。憐潤の情などかけらもない。

 先の青島のジャスコの打ち壊しに群れる中国人の表情そのままだった。
 中国人はまともではないという証言は数ある。
 例えば日清戦争。戦端は明治二十七年七月二十五日、仁川の南、豊島沖で聞かれた。
 日本艦は中国巡洋艦「済遠」の砲撃を受け、応射し相手艦の一隻を欄座させた。さらに中国兵を輸送中の英船籍船「高阪」号も撃沈した。

 陸戦はその豊島の奥、牙山で四日後に始まり、中国将兵五百人を倒して北に向けて進撃が始まった。
 九月十五日には中国軍の拠点平壌に至るが、これも半日で落とした。
 そこまでたった二か月だが、司令官山県有朋は緊急の「訓示」を出している。

 中国人は「極めて残忍の性を有せり。もし生檎(捕虜)に遭わば必ず酷虐にして死に勝る苦痛を受け、ついには野蛮惨毒の所為をもって」殺される。だから生檎されないよう「むしろ潔く一死を遂げ日本男児の名誉を全うすべし」と。

 いかなる惨毒か。日中戦争のころ、不時着した満州航空操縦士が中国人に捕まる。救助隊が駆けつけると「胸まで土中に埋められて耳鼻は削がれ、顔の皮が剥がされ、両眼はくり抜かれ、針金が通してあった」(拙著『飛行25000時間』)。そして最後に埋める前に切り取った陰茎を口に押し込んで窒息死させる。

 殺すまでに何時間でもかける。「まるで楽しんでいるように」と石平が『中国大虐殺史』に書いている。同書には北京の女子中学校で二か月かけて女教師を囃り殺すさまも描かれている。

 教師らは朝六時に起こされ、上体を九十度倒した姿勢で二時間立たされる。少しでも動けば革ベルトで殴られる。昼間は十時間の重労働があって、夜は糾弾集会の名で「顔が饅頭のように膨れる」まで殴られる。

 女校長は糾弾集会を三夜続けられ、最後はトイレで髪の毛はむしられ、汚物で口を塞がれて絶命する。
 やったのは中国人の女子中学生だが、形は満航操縦士の殺害とよく似る。民族の血とでもいうのだろうか。

 彼らに思想はない。ただヒトを痛めつけるのが三度の飯より好きなだけなのかもしれない。
 こんな輩とどう付き合うか。彼らのためにいくら井戸を掘ってやっても、今度のことでいかに無駄だったか分かったはずだが、それよりいい教訓が歴史にはある。

 上海事変の前年、福州の日本人教師夫婦が反日中国人の標的にされた。
「田村総領事は福州当局に夫婦の保護を要請した」と米外交官のラルフ・タウンゼント『暗黒大陸中国の真実』にある。

 当局は一応警護をつけるが、肝心の襲撃日には示し合わせたように姿を消してしまった。
夫婦は予告通り惨殺された。
 総領事は当局の不実を責め、今の金額で数千万円の賠償金を要求した。
 当局は言を左右する。総領事は「ご勝手に。因みに明日、我が軍艦が来ます」と答えた。
それ相応の対応を取るという意味だ。中国人は翌朝、現金をそろえて持ってきた。「以後、福州では日本人への嫌がらせは一切消えた」(同)。

 彼らにはこの手しかない。でも呼び寄せる軍艦がないではないかというなら、企業も人も中国に行かなければいい。
                       (二〇一二年十月十八日号)


米兵暴行事件には歴史的ルーツがある

 少しは知られたコラムニスト、ジェームズ・キャロルが米紙で「戦争と性」を語っていた。
 彼の古い友人が三度もベトナム戦争に行った。それも志願して。
 なぜかと問うキャロルに彼は「セックスさ。最高のセックスを味わうためだ」と答えた。
 生きるか死ぬかの戦場を駆け巡ると異様なまでの性的興奮が噴き出し、それが最高のセックスにつながるのだと古い友人は言う。

 彼のコラムはそれを体裁よく書くが、古くから「女を犯す」のは敵を倒し、富を略奪するのと同列に置かれた戦争の大きな目的だ。


 だいたい戦争は相手を滅ぼすためにやる。ローマはカルタゴを倒すと城も街も畑も焼き払って、そのあとに塩を撒いて草木一本生えないようにした。
 日本占領計画を描いたオーエン・ラティモアは日本にカルタゴを重ねたと自著で語っている。

 米軍は富も知財も盗った。日本からは多収穫小麦の農林10号や戦艦大和のバルバスバウも盗んだ。ドイツからはアスピリン特許を盗った。
 相手国をもっと完璧に滅ぼすには「男を殺し」「女を犯す」ことだ。女を犯すのはその民族の純血を絶やすためだ。

 それは旧約聖書に神ヤハウエの言葉としてある。

 「約束の地」に住む異教徒を倒して凱旋した兵士が女子供を生かしたままにしたことを神が怒り、「戻って男子はみな殺せ。男と寝た女も殺せ。男を知らない処女はお前たちのために生かしておけ」とモーゼを通して命じた。

 その上で奪った羊や牛や財宝、処女をどう分配するか民数記三十一章にこと細かに記述している。
 戦争とは、つまり公認された略奪と虐殺と強姦のことを言う。この伝統は日本を除く世界で生き続けた。

 成吉思汗の征西では中央アジアからロシア、ペルシャまで進出し、男はすべて殺して人口を半減させ、女もみな犯された。
 前に駐在したテヘランでは赤ん坊が生まれると「何色か」と聞く。黄色かったりすると末は坊主かパン焼き職人に決まっていた。

 モンゴル軍はウクライナを侵略した後、北に三百キロも続く湿原には入らなかった。
 その先のミンスクはおかげで禍を免れ、彼らはベラルーシ(白ロシア)と呼ばれた。白は犯されてない、純血のままという意味だ。

 二十世紀にも伝統は生きる。義和団の乱後、ドイツ軍司令官ワルデルゼーは皇帝のための三日間の略奪と、その後に兵士個人のための強姦付き略奪を認めている。
 サダム・フセインを倒した後、バグダッドの博物館を米国の将兵やジャーナリストが略奪したのも彼らには当然のことだった。


 そんな米兵が先の戦争のあと大挙して日本にきた。先陣は第十一空挺師団で、厚木では緊張しすぎて追い風着陸という恥晒しをやったが、降りればもう「戦場の米兵」に戻る。

 その晩には神奈川県下で二件の強姦が起き、九月二日の降伏調印後は警視庁管内だけで一日に四十六件もの米兵の性犯罪があったと読売報知紙が伝えている。

 米国はレイプ発生率で世界のトップ10入りを続ける。これは凄いことで、日本の十一倍の性犯罪率を誇る韓国ですら世界ランクでは十六位でしかない。

 まして進駐米兵はキャロルの言う戦場を駆け巡って異常興奮している連中だ。
 日本は進駐軍に備え性の防波堤、慰安婦とその施設を用意した。
 それで米兵が抑え込めるわけもなく、小倉市では民家に米兵が押し入り、夫を殴打し、妻を犯し、近くの大通りで女性が米兵にジープで連れ去られてもいる。

 沖縄・石川市では六歳の幼女が米兵に誘拐され、輪姦され、殺された。
 米軍は犯人を死刑にすると日本側にはいったが、実際は除隊帰国させた。
 GHQはそうした報道を封じ、ジョン・ダワーは「日本占領統治はマッカーサーのカリスマ性と米兵の高いモラルで成功した」と今も大嘘を書いている。

 歩く性犯罪集団二万五千人が駐屯する沖縄でこの十年で三件目の強姦事件が起きた。
 多いと見るか、よく我慢していると見るか。

            (二〇一二年十一月十五日号)


戦争中の国よりコワい場所

 米国の大学の先生が二昔前の留学生殺害事件についてインタビューしたいと言ってきた。
 こちらはその事件当時ロサンゼルス特派員だった。
 二人の日本人学生がロス南郊の港町サンペドロの深夜のスーパー駐車場で射殺された事件はよく覚えていた。
 あのときは総領事館から一報があって現場に行った。地元記者に話を聞き、二人が収容された病院にも行った。二人とも脳死状態だった。

 暫くして日本から家族がきて生命維持装置を外す承諾をした。
 同じころ十八歳の黒人少年が捕まった。
 彼は終夜営業のスーパー駐車場の暗がりで新車のホンダから降りた二人を脅し、その場に脆かせて後頭部を銃で撃ち、車を奪って逃げた。

 いわゆる処刑スタイルでの殺人で、死の恐怖を十分味わわせてから殺すやり方は第一級謀殺、つまり死刑相当になる。
 裁判でもそこがポイントになり、陪審員の評決は文句なく有罪だった。
 有罪だと次に死刑か仮釈放なしの生涯禁固刑かの選択を同じ陪審員がもう一度評決する。

 日本の裁判ではのっけから貧困家庭だの更生の余地があるだの、つまらない情状論が戦わされるが、米法廷ではこの段階で初めて被告の生い立ちや同情すべき点が弁護人によって語られる。まだ少年だし、死刑は酷だとか。

 しかし二度目の評決は死刑。傍聴席の両親に十八歳の被告が「しょうがないさ」という風に肩をすくめて見せたのをよく覚えている。

 インタビューアーは殺された留学生が通っていた大学の教授ブルース・シュワルツで、日米の関係者に「あの時」を語らせ、二人の死に何らかの意味を持たせたいとのことだった。
 浅草のホテルで撮影があった。教授は神経質でちょっとのノイズも気にして撮り直した。
 こちらは問われるまま事件の概要を語って、次に事件の印象を話した。「彼らの冒険心はいい。ただ無謀だった」と。

 どういう意味かと教授。
 「日本人留学生はハッシシか何かを買いに行ったと思う。深夜のスーパー駐車場の奥でそれは売られているからだ」

 いや食品と聞いているが、と教授。
 「それなら明るい店の前に車を停める。暗い駐車場の奥には停めない。だいたい食品ならもっと近くにいい店があった。危険なサンペドロにはいかない」

 危ない街というのか。
 「ロサンゼルス検視局で開けばいい。あそこは聞こえた犯罪地区で大口の殺人遺体供給地だと答えてくれる」

 それは偏見ではないか。
 「米国の街はどこも危ない。現にルイジアナで日本人留学生か間違った家のドアをノックしただけで射殺されている」

 服部(剛丈)ケースか。
 「そうだ。彼は至近からマグナム弾で撃たれ、胸に大穴を開けられて一時間ももがき苦しんで死んだ」

 米社会は危ないか。
 「服部君を含め在任中に日本入学生計五人が殺された記事を送稿している。こんな国は他にはない。今回の事件は親が買い与えた新車が狙われた。親は車より米社会は危険だという警告を与えるべきだった」

 あれほどノイズを気にした教授はその間、自分のボールペンを盛んにノックして騒音をまき散らしていた。ボツにする気なのはもう見え見えだった。

 で、最後にこう締めくくった。
 私はロスに来る少し前にテヘランにいた。週に一回、イラク機が飛んできて二百五十キロ爆弾をテヘランの街に落としていった。そのたびに地上で四十人は死んだ。

 すごく怖かった。でもここに赴任してきて戦時中のイランより怖いところがあるのを初めて知った。

 先日、教授の心温まるドキュメンタリーが完成したと連絡があった。ただあなたの部分は割愛され、制作協力者として名が出ていますとのことだった。

 米国人は事実をあまり気にしない。美談にしたければ馴染まない部分は平気で切る。
 事実とはオレたち米国人の気に入る形に決まっている。日本がTPPを結ぼうという相手国のこれが考え方だ。

                     (二〇一二年十一月二十九日号)


「白い評価」は全くアテにならない

 カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)日本研究所長のノートヘルファ教授から同僚のダン・マッカラムを紹介されたことがあった。

 東洋美術専門の小柄な教授は名前からもアイルランド出身と分かる。
 そこは長らく英国人に支配され、民は奴隷として売られ、領土も奪われた。
 そして十九世紀、ジャガイモ飢餓が起きて多くが国を捨て米大陸に渡った。西海岸にも多く流れ込んだ。そんな彼らはなぜか英国人でなく日本人を目の敵にして日系移民排斥運動の先頭に立ったことは渡辺惣樹『日米衝突の根源』にも詳しい。

 教授はそういう謂れの西海岸育ちではなく「ケベックから来た」と言った。
 カナダの中でもフランス系が多い。分離独立運動もやっている。昨年秋のケベック州議会選挙では分離独立派の集会で発砲騒ぎもあった。

 教授も独立支持者の一人で、カナダの英国人はどうしようもないと愚痴る。
 「彼らはいまだに差別意識が強くてフランス人もオランダ人も見下している」ましてアイルランド人は言うに及ばない。
 ケベックが独立して「犬と英国人、立ち入り禁止」にならないなら、まだロスの方がいいと引っ越してきた気分は分かる気がする。

 こちらも儀礼的に教授の愚痴に相槌を打って、確かに英国人は鼻持ちならない。味覚音痴のくせに例えばインドでは民族同士の対立点をすぐ感知し、それを刺激して殺し合わせた。
 四億のインド人をたった二千人の英国人で支配し得たのもその奸智ゆえだ。ビルマもマレーもそう。アイルランドの敵だけでなくあの国はアジアの敵だねと語って、ふと見ると教授が顔を引きつらせていた。
 で、言ったのが「君たちが英国を評価することはない。評価は俺たちがする」。

 俺たち白人同士がお互いを批判するのはいい。そこに日本人が割り込んできて一人前の口をきくな。世の中のことは白人が評価する。お前らはそれに従っていればいい、という意味だ。


 彼らがこういう非白人種に対する見下しというか本音を語ることは滅多にない。
 「日本は過去の蛮行に驚くほど良心の呵責を感じていない」「中国韓国をいまだに見下している」と日本批判を繰り返す経済学者ジャン=ピエール・レーマンがその昔、欧州諸国の本音を「日本と西洋」の中でほろっと漏らしていた。

 「先の戦争で日本を叩きのめせたのは米国だけだった。英、仏、オランダは有色人種の捕虜にされたという屈辱を晴らせなかったし、日本のせいですべての植民地を失って再び欧州の貧しい小国に追い落とされた。その恨みは深い」

 それに日本への嫉妬も加わると彼は言う。「日本人は高い均質性と、外国語を必要としないほどの高い教育水準と学術をもち、それらを通して完成度の高い社会を生み出している。そこには長年、棲みつき、肉体的にも似ている朝鮮人ですら入り込めない」。

 そういう孤高さが逆にキリスト教白人国家を刺激し、「日本に対していつも否定的で、ヒステリックで、ときに根拠のない排泄に満ち満ちた態度になる」とも解説する。


 ドゴールが池田首相をトランジスタ商人と貶めたのも、レーマン自身の言う「残忍な日本車」もそういう腹立ちが生んだ勝手な評価なのだ。

 先日、カナダと米国が米メイン州沖の砂粒ほどのマキアスシール島の帰属を巡って二世紀越しの論争を続けているとニューヨークタイムズが報じていた。

 米側からは十五キロ。それがはるか向こうのカナダ領になっていて島の灯台もカナダが管理している。
 米国がよこせといい、アホかとカナダが言う。元英国領で、それがカナダに引き継がれたための捻じれだが、エゴ剥き出しの罵り合いでも記事では「理性的な市民」の話合いと書く。
双方でインディアンに頭皮を剥がさせ奪い合った過去は一切触れもしない。

 これが尖閣だと騒ぐのはまともな中国人に対し「日本のファナティックな国粋主義者」と書く。おまけに持ってもいない「旭日旗を振って」と同紙のマーティン・ファクラー東京支局長は平気で嘘を書いている。
 「評価は白人がやる」は元気に生きている。

                      (二〇一三年二月二十一日号)



”航空ニッポン”は永久に不滅

 フランクリン・ルーズベルトは白人と対等に振る舞う黄色い日本人が大嫌いだった。それで「彼らを四つの島に閉じ込めて滅ぼしてしまえ」(クリストファー・ソーン『米英にとっての太平洋戦争』)と遺言した。

 トルーマンはそれを守って二発の原爆と、十六万トンの通常爆弾を降らせて日本人を焼き殺した。

 日本は敗れたが、それから二十年も経たないうちに東京五輪を開いた。
 毛沢東が共産党独裁政権を樹立してから五輪開催まで六十年以上かかったのと比べるまでもない。ルーズベルトが日本を怖がったわけがそこにある。

 彼は日本人を閉じ込めた上にいくつかの枷を嵌めた。「ぜんまい仕掛け以上の飛行機を持たせるな」もその一つだった。
 日本人が四つの島から勝手に飛び出せないようにすることと、白人国家をてこずらせた航空技術を封印するためだった。


 この枷は講和条約のあとも残され、昭和三十一年にやっと解除された。
 日本はそれを待ってすぐ飛行機作りを始め、東京五輪の少し前に戦後初の国産輸送機を作りあげた。それがあのYS11だった。

 零戦の堀越二郎、隼の太田稔、紫電改の菊原静男ら輝々たる設計陣が生み出した双発機はただエンジンが英ロールスロイス社製でプロペラも同ダウティロートル社製。タイヤは米グッドイヤー社製、操縦システムや無線は米ロックウエル・コリンズ社製。機体素材のジュラルミンも米アルコア社の世話になった。

 富士通のファコムが機体設計をしたものの人間でいえば心臓も肝臓も皮膚もみな外国製だった。
 「国産機です」と胸を張れる代物ではなかった。それだけルーズベルトの諜した航空禁止令の箍が重かったという言い方もできる。

 それから半世紀。米国は最新鋭のボーイング787をデビューさせた。
 操縦系続こそ油圧を使うものの、その他ブレーキなどの作業はすべて電気仕掛け。窓の遮光も手で雨戸を下すのでなく、電気仕掛けで暗くなる仕組みだ。

 機体も軽量化され、足も長くなった。そんなスマートさのもとは何かというと主翼、中央翼から胴体、車輪格納庫まで三菱重工、富士重工、川崎重工製。タイヤもまた日本のブリヂストン製。
 電池がGSユアサ、エンジンは米国製だがそのシャフトはIHI製で、YS11のジュラルミンに当たる機体素材は束レの炭素繊維が使われ、音響はパナソニックが担当した。
 因みにトイレにはTOTOのウォシュレットが備わっている。


 形から言うとYS11のちょうど真逆というか、米ボーイング社は日本製のパーツを自分の工場に運び込んで、それを組み立て(integrity)ているだけなのだ。

 YS11ではファコムだったが、さすがにボーイングは米国製のコンピュータを使って設計した。どうもそれがよくなかったようだ。
 問題が次々起きて第一発注者の全日空に納入されたのが約束の納期よりほぼ三年も遅れた。
だから「7 Late 7」なんて陰口が叩かれた。

 おまけにフランスのタレス社から納入された配電システムが良くなくて今年一月には日航、全日空の同型機が相次いでトラブルを起こし、米連邦航空局から不名誉な耐空性改善命令を出され、しばらく運航禁止になった。

 五十年経ってもまだ元気に飛んでいるYS11の完成度とは大いに違う。

 ボーイングは垂直離発着輸送機V22オスプレイも手掛けたが、あれももたつき、下品な朝日新聞の好餌にされた。

 軍用機最大手のロッキード・マーチン社の次世代新鋭戦闘機F35もトラブル続きで、ここにきて日本の助けがほしいと例の武器輸出三原則の例外にしてもらったばかりだ。

 米国の先進テクノロジーに陰りが出てきたことは確かみたいで、それを当てつけるように米誌「コンシューマー・リポート」が自動車ブランド別のランキングを発表した。上位一位から七位までをレクサス以下の日本車が占め、逆に完成後に難のある最下位から六番目までを米車が独占していた。

 日本車に高関税を残してと日本に泣きついたオバマはルーズベルトの思いが今ごろやっと分かったようだ。
                      (二〇一三年三月二十一日号)

参考 ブランド別ランキング記事

Best 1.Scion 2.Toyota 3.Lexus 4.Mazda 5.Subaru 6.Honda 7.Acura 8.Audi 9.Infiniti 10.Kia

Worst 1.Jaguar 2.Ford 3.Lincoln 4.Ram 5.Dodge 6.Chrysler 7.Mini 8.Buick 9.Volvo 10.Jeep

小野田寛郎 さんの動画

フィリピンのルバング島に、戦後30年も戦っていた小野田寛郎(おのだ ひろお)さんの関連動画です

今、見ても、現代に生きる我々に訴えるものがあります

小野田さんの鋭い眼光
小野田





私は戦場での30年、生きる意味を真剣に考えていた
戦前、人々は命を惜しむなと教えられ死を覚悟して生きた

戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった

覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である
だが、死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまってはいないだろうか



下記動画は、かなり後になってのインタビュー動画ですが、この動画を見ると、小野田さんのすごさ(帝国陸軍中野学校のすごさも?)が、よく理解できます

生き抜く 小野田寛郎 1/8 自動で連続再生されますが、途中7/8が抜けているようです



小野田さんは、いわゆる従軍慰安婦について、インタビューを受けて語っておられます。
これを見れば、なるほどなあ、戦地の状況として慰安婦の強制連行などありえない。という事が良くわかります。


プロフィール

micky358

Author:micky358
何事にも好奇心旺盛な♂です。
船井幸雄さんのファンで、そこで紹介されていた本をよく読みます。

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