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パール判事の日本無罪論 田中正明著

パール判事の日本無罪論 田中正明著

東京裁判(極東国際軍事裁判)というのは、日本人に「先の大戦は、日本の軍国主義が原因で、日本が悪かったせいだ」という自虐史観を植えつけるのに決定的な影響を及ぼしていますが、この本はその洗脳を解くのに大いに役立ちます。

先の大戦の戦争犯罪を裁いたと言われる東京裁判の真実は、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」でした。
東京裁判の判事の中で、唯一の国際法の専門家であったパール判事だけが被告を全員無罪と主張されましたが、それは同じ東洋人として同情したからではなく、法律により正しい判断をしたからだったのです。次のようなエピソードも・・・

『博士が再度訪日されたとき、朝野の有志が帝国ホテルで歓迎会を開いた。その席上ある人が
「同情ある判決をいただいて感謝にたえない」と挨拶したところ、博士はただちに発言を求め、起ってつぎのとおり所信を明らかにした。


「私が日本に同情ある判決を行なったと考えられるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したのでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、また、それ以下のものでもない」

 日本に感謝される理由はどこにもない。真理に忠実であった、法の尊厳を守った、という理由で感謝されるならば、それは喜んでお受けしたい、というのである。』

裁判官として、なんと素晴らしい人だと、感嘆せざるを得ません。

また、茶番劇について、下記のような記述もありましたが、なるほど納得です。
「一主役一舞台に整理してみると、つぎのようになる。
松井-中国、
木村一ビルマ、
板垣-シンガポール(イギリス)、
武藤-バターン(フィリピン)、
東条-真珠湾(アメリカ)、
土肥原-満洲、
広田-ソ連。
 なんのことはない、これら七被告の首は、初めから米、英、中、ソ、比などへ割りあてられていたのだ。

もし、七人の誰かが、松岡や永野のように、裁判の途中で死亡したりすれば、つまり配給の予定に狂いが生ずれば、彼らはたちまち代替品を充当したであろう。
被告の数は多かったし、理屈はどのようにでもこじつけられたのだから……」


この本の裏表紙に書かれていた「解説文」と、小林よしのり氏による「推薦文」、そして最後に記載されていた「インドの軍事裁判との比較」を抜粋して記載します。これがこの本の内容を象徴している部分のように思います・・・是非、読んでみてください。


■裏表紙の解説文■

 東京裁判の真の被害者は「法の真理」だった!
判事十一名の中ただ一人日本無罪を主張したパール博士。判事中唯一の国際法学者だった被は、国際法に拠らず、事後法によって行われた裁判を、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」であり、違法裁判であると非難した。
後にその主張は世界中で高く評価された。

 本書は、パール判決文を中心に、マッカーサーも認めた「東京裁判の不正」を問う。
多くの日本人が信じて疑わなかった東京裁判史観と、戦後日本人の歪んだ贖罪意識にメスを入れる不朽の名著を復刊。
靖国神社問題や教科書問題の根はここにある!



■推薦のことば 小林よしのり■

 本書は、第二次世界大戦終結後に行なわれた東京裁判(極東国際軍事裁判)の本質と、この裁判においてただ一人「被告人全員無罪」を主張した、インドのラダ・ビノード・パール判事の理念を最も簡潔、的確に伝えた一冊である。

 著者の田中正明氏は、連合国占頷下の言論弾圧が非常に厳しい中、公表を禁止されていたパール判決文の刊行作業を秘密裏に続け、1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復したまさにその日に、本書のもととなる『パール判事述・真理の裁き・日本無罪論』を出版された。そこまでの執念でパール判決を世に問うて来られたのだ。パール判事と東京裁判の真実に関して、田中氏の著書を超えるような本は他にない。
だからこそ、本書は長年版を重ねてきたのだろうし、これからも若い人が読み継いで行かねばならない本だとわしは思う。

 東京裁判が、国際法の常識から照らして全く野蛮な復讐劇であり、政治的茶番劇にすぎなかったことはもはや世界で認識されているのに、日本では東京裁判を否定すると、未だに「右翼」とか「戦争を肯定する危険思想」と言われてしまう。こんな風潮は、そろそろはっきり打ち破らねはならない。本書はそのために絶対必要だ,

 例えば「A級戦犯」という言葉がある。靖國神社参拝問題では、この言葉の意味も知らずに批判する者がじつに多かったが、これも東京裁判で作られたものだ。
 戦勝国の検察官は、日本が1928(昭和3)年1月1日から1945(昭和20)年9月2日までの間、一貫してアジアを侵略して支配下に置くための陰謀を企て、その謀議に沿って満州事変、日中戦争、太平洋(太東亜)戦争を引き起こしたのだと主張し、これが裁判の最も重要な焦点となった。そして、この「共同謀議」をした犯人として軍人、閣僚など28人を起訴し、これを「A級戦犯」と呼んだ。
 ところがこの28人は思想も信条もバラバラで、お互い会ったこともない人までいた。「A級戦犯」の一人、荒木貞夫陸軍大将は「軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ南だと国内はガタガタで、おかげでろくに計画もできずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と言った。実際、その間に政権は十八回も交替しており、ドイツが、延々と続いたヒトラーの独裁政権下で謀議を重ねたのとは全く違う。東条英機内閣ですら、議会の反発を受けて総辞職に追い込まれている。当時の日本は国会が機能しており、あくまで憲法に基いてりーダーが選ばれていたのであり、「共同謀議」など皆無だった。
 ところが東京裁判法廷はこんなに明らかな証拠を無視し、被告を強引に「有罪」として七人を絞首刑、十六人を終身禁固刑、二人を有期禁固刑に処した。

また、前後して七人が獄死。刑死者と獄死者の十四名が靖國神社に合祀された。
 一方、禁固七年の有罪判決を受けた重光葵・元外相は、釈放後に再び外務大臣(副総理兼任)になり、1956(昭和31)年、日本の国連加盟式典に代表として出席、国際社会復帰の声明文を読み上げ、万雷の拍手で迎えられた。戦勝国に「A級戦犯」とされた者が、戦勝国が作った「国際連合」の場で大歓迎されたのだ。ついでに言えば、この「A級戦犯」を副総理兼外務大臣に起用した総理大臣は鳩山一郎。「A級戦犯を合祀した靖國神社」の首相参拝に大反対した、あの鳩山由紀夫の祖父である。

 死んだ後まで「戦争責任」を問われ、靖國神社から外せとまで言われる「A級戦犯」と、外務人臣として国際舞台に復帰して、握手攻めに遭った「A級戦犯」の差は一体、何だったというのか? これこそ、「A経戦犯」という概念がいかにいいかげんなものだったかという証明であり、ひいては「東京裁判」なるものの本質を如実に表していると言える。死んだ十四人は「裁判」の名を騙(かた)った報復に斃(たお)れた戦死者であり、他の戦死者と同様に、靖國神社に祀られるのは当然のことなのだ。
 パール判事はただ一人、日本が戦争に至った経緯を調べ上げ、「共同謀議」など一切なかったことを証明して「全員無罪」の判決を下した。これは決して日本に対する同情心からではない。裁判官の中で唯一の国際法学者として、この東京裁判を認定し、許容すること自体が「法の真理」を破壊する行為だと判断し、こんな「裁判」が容認されれば、法律的な外貌(がいぼう)をまといながら、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く、野蛮な弱肉強食の世界を肯定することになるという、強い危惧を抱いたためである。
 このパール判事の理念さえしっかり理解して東京裁判を見直していたら、戦後日本の言語空間はもっとまともなものになっていたはずだ。しかも東京裁判を主催したマッカーサー自身が、朝鮮戦争後に米上院で、日本の戦争の動機は「安全保障の必要に迫られてのこと」、つまり自衛戦争だったとはっきり証言し、世界中の学者や政治家も東京裁判への疑念を表明している。
それなのに、日本人は東京裁判の不正を直視しなかった。戦勝国に押しつけられた東京裁判を自ら受け入れたがる、強者による敗者への復讐を受けたくてしようがない……そんな人間があまりにも多すぎるのだ。

 例えば、「日本はサンフランシスコ講和条約第十一条で裁判を受諾したのだから、東京裁判を尊重する義務がある」と主張する者がいる。だが実際の「サンフランシスコ講和条約第十一条」の条文は「Japan accepts the judgements」……「日本は諸判決を受け入れる」とあるだけで、「裁判」そのものを受け入れたわけではない。ところがそれをねじ曲げ、東京裁判を受け入れるのが平和主義者だという異常な解釈を強引に広めようというマスコミ、知識人がいるのだ。

 本書で田中正明氏も書かれているように、戦後、日本人はどんどん異様に、卑屈になっていってしまったとしか思えない。一体、これらの「歪み」はどこからきたのか。
軍部が全部悪かった、自分たちは騙されたのだと、まるで戦前の人問は違う民族であるかのごとくに裁き、戦後の自分たちの拠点を神の視座まで押し上げ、同じ民族を自ら精神的に分断していく。しかも終戦直後よりも、むしろ年が経つごとにその風潮はどんどん加速し、ますます根深いものになってしまったようにわしには思える。
「A級戦犯」という言葉のイメージも一人歩きしてしまい、自民党の政治家までがA級戦犯はとにかく悪い人間で、それを靖國神社に祀ってあるから公式参拝反対などと言っている。彼らはパール判決文のような資料は読んでいないだろうし、おそらく読もうとさえしていない。全くの無知から言っているのだ。

 彼らは自らを「平和主義者」だと思っている。
 だが、軍事力でねじ伏せた相手に、一方的な戦勝国の論理を押しつける「裁判」のどこが平和主義なのだろうか? それは、野蛮な弱肉強食の国際社会を肯定する「軍国主義」に他ならないではないか。

 パール判事は、「真の国際法秩序」を確立したいと願っていた。国際社会を普遍的な法の下に秩序づけなければ、戦勝国の復讐やリンチがまかり通る弱肉強食の世界を超えられない。そう考えていたのだ。パール判事こそが、本物の理想主義者、平和主義者だったのである。

 真の理想主義者、平和主義者の目に映った東京裁判は、野蛮な復讐のための見せしめでしかなかった。それを認めない限り、とても日本は平和主義国とは言えまい。
 東京裁判の論証を試みようとするだけで右翼と決めつけられてしまう戦後日本の風潮……。一体、本当の意昧での平和主義とは何なのか、戦勝国の裁判を受け入れることが平和主義につながるのか。本書を読んで、それをもう一度考えてみてほしい。

 この本には、戦後世代を覚醒させる力がある。


■インドの軍事裁判■

 ここで私は、東京裁判とは全く対照的なインドの軍事裁判について触れてみたいと思う。
 1945年、つまり終戦の年の11月、インドの首都ニューデリーにおいて、大がかりな軍事裁判が聞かれた。被告はセイガー、シャヌワーズ、クローバク・シンの三人の大佐である。
裁判官は英印軍最高司令官マウントバッテン将軍の指揮下にある英人法務官、弁護人団の団長は、国民会議派の最長老バラパイ・デザイ博士、舞台はオールド・デリーの軍法会議。証人として日本から召喚されたのは、沢田廉三大使はじめ、松本俊一、太田三郎氏ら外務省関係者に加えて、ビルマ方面軍参謀長片倉衷(ただし)少将、インド国民軍の創設者藤原岩市中佐、その他ビルマから直接召喚された磯田中将、香川中佐、高木中佐、蜂谷大使など十名、罪名は「叛逆罪」であった。

 太平洋戦争が勃発した1941年12月8日未明、山下奉文(ともゆき)中将の率いる第二十五軍は、シンゴラ、コタバルに敵前上陸して、快進撃をもってマレー半島を南下した。進撃があまりにも急であったため、いたるところでインド兵が捕虜として捕らえられた。
当時F機関と称する、藤原中佐を長とする民間人を交えたひと握りの工作機関が、このインド兵捕虜を編成して、「インド独立国民軍」を創設した。

初代の指揮官としてモハンシン大尉がこれにあたった。難攻不落を誇ったシンガポール攻略戦には、インド国民軍は非常なる勲功をたてた。シンガポールのインド兵を加えて、国民軍は総勢四万五千に膨張した。
ラス・ビハリ・ボースを主席とするインド独立連盟がバンコクに旗揚げするや、国民軍はこの中に移管されたが、やがてインドの革命児チャンドラ・ボースが出現するに及び、国民軍はあげて披の指揮下に入るとともに、ビハリ・ボースの独立連盟も彼の手にゆだねられ、1943年7月4日、自由インド仮政府が誕生した。

 チャンドラ・ボースという偉大なる指導者を得て、インド国民軍は奮いたった。精鋭一万五千に選りすぐり、これを三連隊に分けて徹底的な訓練をほどこした。被告の三人の大佐は、それぞれの連隊長である。1944年4月、ビルマのポパ山の戦闘において、インド国民軍は初めて英軍と交戦し、これに大打撃を与え、緒戦において凱歌をあげた。
 やがてインパール作戦となるのであるが、ボースの率いるインド国民軍は、お粗末な装備ではあったが、三連隊雁行して、祖国へ向かった。合言葉は、
 「ジャーヒン!」(インド万歳)
 「チャロー・デリー!」(征け、デリーヘ)

 であった。国民軍はこれを口々に唱えて、意気まことに軒昂たるものがあった。

 雨期にたたられたインパール作戦は、日本軍の惨憺たる敗北に終わり、終戦がやってきた。チャンドラ・ボースは、終戦の詔勅が発せられてから三日目、45年8月18日、台北飛行場で、搭乗機の事故のため死亡。三連隊長はじめ生き残った国民軍将兵は、ビルマで英軍に捕らえられ、ことごとくニューデリーに護送された。罪名は利敵・叛乱という、もっとも重い犯罪者として。
 筆者は、ニューデリーにおけるこの軍事裁判の模様を、証言台に立った藤原中佐からつぶさに聞き、多くの参考資料を見せてもらった。その詳細は、拙著『アジア風雲録』昭和31年初版、東京ライフ社)に記載してある。

 この裁判は逆に、インドの独立を決定的なものにしてしまった。国民軍は、全インドの民衆から、独立の英雄として迎えられた。彼らは、崇拝するチャンドラ・ボースの許で、祖国解放のために闘ったことを、このうえない誇りとした。ジャーヒン(インド万歳)、チャロー・デリー(征け、デリーヘ)ということばは、全インドの合言葉となってしまった。

ネールをはじめ会議派の指導者も、この裁判を徹底的に闘いとる決意を固め、民衆をその方向に導いた。この裁判において裁かれたものは、英国の二百余年間にわたる侵略の歴史であり、数々の暴虐と圧政と搾取と略奪の事実であり、英軍の不条理であり、非人道性であった。世論はあげて、これを強力に支持したばかりか、インドの民衆は、いっせいに実力行使に起ちあがった。

この裁判の最中に行なわれた、ニューデリー凱旋広場での英軍戦勝VD記念日には、デリーの市民は全戸弔旗を掲げ、商店は店を閉め学生は学校を休み、労働者は職場を離れ、この日をインド民族の悲しい記念日として、独立運動に倒れた志士に黙祷を捧げた。英軍の勝利は、インド民族にとって敗北の日であると彼らは受け止めたのである。裁判を勝ちとるためのストライキや、ボイコットや、デモは、次第に全国的な盛り上がりをみせた。新聞やラジオは、彼告たちの戦場における英雄的行為を報道し、半面、英軍のインド兵に対する偏見や弾圧や残虐な行為をあばきたてた。
焼き打ち事件はいたるところで起き、集会とデモは連日連夜、波状的に行なわれた。

そしてついに警察官やインド兵が動揺しはじめ、流血の惨事はますます拡大した。ホーインレック軍司令官はついにデリーに戒厳令を布いた。騒擾(そうじょう)はデリーだけにとどまらなかった。カルカッタはチャンドラ・ボースの出身地であり、それだけに反英闘争は最も激しく、デリーについでカルカッタにも戒厳令が布かれた。カラチもボンベイ(現ムンバイ)も、ほとんど全インドに不穏の情勢がみなぎった。

 英国としては、二百余年間の主権者としての威信を保持し、インドの統治を磐石ならしめるためには、反逆者に対してはこれを徹底的に懲らしめる必要がある。憎むべき日本と手を結んで仮政府をつくり、堂々と英軍に歯向かい、多数の英人を殺戮し、あるいは捕虜としてはずかしめた国民軍の指導者を、今後の見せしめのためにも、厳罰主義をもって処断する必要がある。英印軍の軍法では、上官侮辱、抗命、通謀、利敵、反逆は、文句なしの統殺到となっている。

 ところが、この全インドに巻き起こったすさまじい民族的抵抗に逢着(ほうちゃく)して、英政府も総督も軍司令官も狼狽した。あわてふためいた彼らは、ついに軍事裁判の最高責任者をして、反乱罪は取り下げる、たんなる殺人暴行罪として起訴すると声明せしめたが、インド民衆の怒りは、それでもなお、治まらなかった。軍事裁判の判決は、三人の被告に対し、殺人暴行罪として15年の禁固刑のいい渡しを行なったが、それは英国の面子上の形式で、軍司令官命により、同日付をもって”執行停山、即日釈放”の宣告を下したのである。

まことに政策的ともいうべき珍妙な裁判に終わった。さすがの大英帝国の威信も、厳格を誇った軍法も、燃えあがるナショナリズムの烽火(ほうか)の前には、あえなく屈したのである。

 もちろん筆者は、この軍法会議と東京裁判を同日に語ろうとは思わない。だが、それにしても、あまりにも情けないのは、日本国民の事大主義である。
 鬼畜米英などといって夜郎自大的になっていた態度もさることながら、ひとたび占領軍が進駐してくるや、占領軍に平身低頭したばかりか、唯々諾々として占領政策に忠誠を誓い、日本の弱体化政策、愚民化政策、骨抜き政策に奉仕し、みずからの手をもって、これを短時日の間に成就した、その情けない態度、そのさもしい根性を、筆者は指摘したいのである。

 国民は騙されたといい、指導者は責任のなすり合いをやり、いわゆる文化人は勝者にこびへつらって、牛を馬に乗り換える。これが当時の風潮であった。日本の官僚、政治家をはじめ、学者やジャーナリストの多くは、戦時中は軍部に、敗戦後はアメリカに、占領が終わると親ソ反米に傾く、それはちょうど、波が来ると、右へ左へ大きく揺れる本の葉舟のようである。あるいは、自分の色をもたない、変色自在なカメレオンのそれである。この風潮は今日なお尾を引いて、日本の社会心理をきわめて不安定なものにしている。
 広島・長崎に投下された原子爆弾の悲惨きわまりない禍害も、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州になだれ込んだソ連軍の侵入も、ともに日本の侵略戦争を終息させるため正当なる手段で、悪いのは日本の軍閥である。八月十五日の終戦は”日本の黎明”であったーーーこのような意見が、日本人自身の口から、臆面もなく堂々と放送されたのである。
同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは、とうてい信じられないことであった。
パール博士は、東京裁判を通して、戦勝者の思いあがった傲慢な態度に痛棒をくらわせると同時に、日本国民よ卑屈になるな、劣等感を捨てよ、世界の指導国民たる自負をもって、平和と正義のために闘ってほしいと訴えている。


われわれは博士の法理論に学ぶとともに、この博士の権力に対する”不服従”の精神を通して、二百年間英帝国の統治下にあって、なおかつインドの宗教と文化の伝承を敢然として守り抜き、少しもこれを損なわなかったのみか、これによって独立を勝ちとったインド民族の、その強靭なる土性骨に学ぶべきではなかろうか。

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東日本大震災の発生前の9ヶ月前に「津波対策法案」が国会に提出されていた。



東日本大震災の発生前の9ヶ月前に「津波対策法案」が国会に提出されていたが、民主党の不作為で審議されず法案が成立しなかった(成立したのは震災発生の3ヶ月後、ほとんどそのままの内容で成立した)

法案の内容は一言でいえば「津波による人命の被害を少なくするのが目的で、とにかく逃げろ!という事を形にした法案」であり、具体的には、国民の津波に対する理解を深める啓蒙活動・教育訓練・ハザードマップの作成など

もしこの法案が成立していたら、津波の発生の4ヶ月前に津波の避難訓練を実施していたはずだったなんて・・・悔んでも悔みきれない・・・
  
法案の内容から考えて、もしこの法案が通っていたら、被災者の数は、かなり減っていたと思われます。詳しくは上記の動画(赤澤議員の魂のこもった質疑)を是非見て欲しい・・・

2010年に2月27日にチリ地震津波が来た時は、警報が出されたにも拘らず本当に避難をした人は、ほんの3.8%だったのです。

それで、危機意識を持ち、同年6月自民党からこの対策をまとめた法案「津波対策法案」を国会に提出し、その審議を要求しましたが、与党であった民主党が審議せず・・・

もしこの法案が通っていたら、日和山幼稚園の園児たちの死亡も、避けられていた可能性が高い。

この園児たちは、民主党の不作為によって殺された。とも言えるのではないか。

この津波対策法案が通っていたら・・・というような話は、マスメディアで報道されていたのでしょうか?

少なくとも私は、このような「津波対策法案」の話は知らなかった・・・・たまたま、日和山幼稚園の園児の避難の責任が幼稚園にあるという判決が出た関係で、関連のブログから知っただけです。

当時の管総理は、まったくこの法案の事も知らず、2010年に2月27日のチリ地震津波も知らず・・・
本当に、民主党は、最低のひどい政党だったんですね。まだこのような政党が存在している事自体が罪悪です。

アメリカ人が韓国で道を聞いたら、突然殴られる


Eating Live Octopus In Korea W/ Surprise Ending

生きているタコを食するアメリカ人、2分後あたりから・・・韓国人に道を尋ねたら、突然殴りかかってきた

・・・ホントに、こんな人たちとは関わりたくないですね

歴史を忘れた民族に未来はない の出典元

歴史を忘れた民族に未来はない
日韓サッカーで韓国の応援団が掲げた横断幕ですが、なかなかの名文句ですよね。
まさに、韓国人のためにあるような・・・中国人にも・・・ああ、自虐史観に洗脳された日本人にも・・・

出典はどこなんだろうと思っていたら、産経ニュースの記事にありました
これは、韓国併合時代に、韓国人自らに向けた戒めと激励のためであって、日本に向けたものではない。その意味は現時点でいえば、「日本に侵略され支配された歴史を忘れず、再びそういう悲劇を招かないようがんばろう」ということ・・・だそうです。まさに「韓国のための名言」だったんですね。

以下、産経ニュース記事(2013.8.3 03:04)からの引用です-------------------

 先のソウルでの日韓サッカーで韓国の応援団が掲げた「歴史を忘れた民族には未来はない」と書かれた横断幕が、政治的宣伝行為ではないかと問題になっている。この文句は韓国の独立運動家で歴史家、言論人でもあった申采浩(シン・チェホ)(1880~1936年)の名言といわれる。しかし、出典とされる「朝鮮上古史」など彼の著書には実際には出てこない。どうも後世に彼の志をくんで作られたようだ。

 彼が生きた時代は主に日本統治時代だが、いずれにしろこの文句は本来、韓国人自らに向けた戒めと激励のためであって、日本に向けたものではない。その意味は現時点でいえば、「日本に侵略され支配された歴史を忘れず、再びそういう悲劇を招かないようがんばろう」ということになる。ところが今や支配された方(韓国)が支配した方(日本)にしきりに「歴史を忘れるな」と言っている。

 だから日本非難の政治的文言と疑われるのだが、あの言葉は当然のことで日本人もよく分かっている。それをまるで他者(日本)向けの話のように居丈高に言いつのることを申采浩はどう思っているだろうか。

 とくに「あんたに未来はないよ」といわれると、どこかおせっかいな感じがして「自分の未来は自分で考えますから」と言いたくなるではないか。(黒田勝弘)

----------------------------------引用おわり---------------

でも、自虐史観に洗脳されてしまった日本人にも、そのままあてはまりますよね
名文句だと思います



ぼくらの祖国  青山繁晴 著


書籍名:ぼくらの祖国
著者:青山繁晴
出版社:扶桑社

お勧め度:★★★★★



戦後の日本では「祖国」の大切さを教えなくなったが、そのような国は世界中でも日本だけの異常事態なんですね。

確かに「祖国は政府とは違う」という視点は、指摘されるまで、私も明確に認識してなかったように思います。

そもそも、戦争での勝敗は、正邪とは関係ない。
武力等が強いほうが勝っただけの事であり、勝った方は自分が道徳的で正義だったから勝った訳ではない。そして、負けたほうは、自分が邪悪だったから負けた訳でもない。(やくざの張り争いなどは、どちらが正義ともいえなかったり・・・)
だから、負けたほうは(勝った側が正義だったとされる傾向があるので)負けた時にこそ護らなければならないものがあったのだ。民族としての誇り・文化・伝統・・・


この祖国への認識不足が根本原因で、日本はおかしなことになっている。
たとえば北朝鮮の拉致に対する考え方や対応、方針。
硫黄島の戦没者の遺骨収集について
特に硫黄島の栗林忠道中将の話は、胸に迫るものがあります。

栗林忠道中将のお孫さんが、現総務大臣の新藤義孝氏で、安倍総理が硫黄島へ訪問された時に同行されたそうです。


以下は、青山繁晴さんの文章から心に残った部分を抜粋したものです。


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 祖国は、ぼくたちに何かをしてくれたり、何かをくれるわけじゃない。政府は、ぼくらに学校をつくってくれたり、仕事を無くしたときはしばらく失業保険金をくれたりするけれど、政府は祖国じゃない。政府は祖国とは違う。

 政府はどんどん変わる。ぼくたちは、政府を支持したり支持しなかったりできる。つまり、政府は変わるのじゃなくて、ぼくらが変えられる。

 しかし祖国は変わらない。母なる存在だからだ
。それもぼくたちが、たとえば意見の違いでどれほど議論し、対立し、揉みあっても、だれにとっても同じ母がいる。それが祖国だ。
 だから外国人の書いた本に、あるいは外国のことを日本人が書いた本に、祖国を喪って苦しむひとびとの話が出てくるのだ。
 ところが、戦争に負けたあとの日本では、この政府と祖国の違いが分からなくなった。語られなくなった。


 世界には、国際連合に加盟している国だけで193か国ある(2012年12月現在)。およそ200の国々が地球にあるわけだ。
 その国のうち、祖国、そして祖国愛という共通の土台を国民が持たないのは、ぼくらの日本社会しかない。世界を歩けば歩くほど、それが身体に伝わってくる。

 もう一度、思い出そう。その理由は「日本が戦争に負けた」からだと、ぼくらは世代は違っても、学校は違っても、いつでもどこでも教わってきた。

 では世界で、戦争に負けた経験のあるのは日本だけなのだろうか。世界の主要国は、すべて戦争に負けている。もっとも強いアメリカも、1975年にベトナム戦争で負けた。そして2003年から2010年まで続いたイラク戦争ではどうか。ぼくはこのイラク戦争の戦地に入り、アメリカ軍が、軍服も着ていないテロリストに負け、焦りのために、テロリストではないイラク国民をたくさん殺害し、そのために憎みに憎まれて、実質的に大敗する現場を体験した。世界中の国が戦争に負けている。日本がたった一度、戦争に負けたことは、祖国を喪う理由にならない。それは実は思い込みだった。

 なぜ思い込んだのか。

 日本人が愚かだからではない。それまで二千年を超えて、外国に負け国土を占領された経験が一度たりともなかった。これは世界の例外中の例外だ。だから、勝った時ではなく、負けたときにこそどうするか、その練習も訓練もできていなかっただけである。

 何を思い込んだのか。

 アメリカをはじめ勝った側の言う通りにせねばならないと思い込んだのだ。ほんとうは逆である。負けたときにこそ、その民族と国家の先達が営々と築きあげてきた大切なものを護らねばならない。

その理念は、国際法にも存在している。
 国際法のひとつ、ハーグ陸戦条約の四十三条によれば、勝った国は、負けた国の法律を勝手に変えてはいけない。負けた国がその文化と歴史と主権に基づいて法をつくってきたことを尊重する、定めである。

 ぼくらの生活の基礎をつくる憲法について、ぼくは、すべて最初から日本国民が書き直すべきだと長年、語り続けてきた。憲法の内容に賛否を言う前にそもそも、現在の日本国憲法の原案は、日本が戦争に負けたときアメリカ占領軍が英語で書いたという、だれにも動かせない冷厳な事実があるからだ。国際法に背いている。

 国際法は、にんげんが、むごい殺し合いを繰り返しながら血で購ってようやく造り出してきた貴重なルールだ。それを守るということは、ぼくら日本国民が意見や立場の違いを超えて、共通して、掲げることのできる目標ではないだろうか。

 敗戦後の日本国民は、憲法をめぐって「変える」「変えない」で意見が対立し、それを根っこのひとつにして何をめぐっても対立し、あるいは、たとえば世代・年齢の違い、地域の違いを強調して、国民を分けることに熱心だった。
 その意見の違いや、時代あるいは地域の個性をおろそかにせず、尊重しつつ、共有できることを共有する。その、こころの眼を持つことが、日本社会を甦らせる。

夜が明ける前には、明けの星が、青い一滴の光を発する。それを共に見あげることは、掴みあいの喧嘩をしていても、できるのだ。
・・・・・・・・・



 日本の大人が「戦争は二度としてはいけない」と、きみたちに話してきた戦争は実は古い戦争であり、今から戦争するぞという宣言、それは宣戦布告と呼ばれているが、それがあるような戦争、また、その宣言のあとにどっと海岸線に何万もの外国の兵士が押し寄せてくるような戦争は、とっくに古い戦争になっている。

 ほんとうの、ぼくたちの時代の戦争は、このようにわずか二人ほどの工作員が、日本国民に襲いかかって、勝手に自分の国に連れて行き、そのひとの人生を奪うような戦争なのだ

 だから、そもそも、日本の大人が「日本は、あの悲惨な第二次世界大戦のあとは平和になった。だから、この平和を大事にしなさい」と言ってきたのは、真っ赤な嘘だ。
 それが嘘ではないのなら、横田めぐみちゃんたちは日本国民ではないのだろうか。

 重要なのは金正日総書記が、犯罪組織などのせいにせず、国家機関の手で行ったことを明言したことである。

 北朝鮮といえども、国連に加盟している主権国家だ。ひとつの主権国家が、別の主権国家の国民を、国家として拉致し奪い去る。国際社会では、それはすなわち戦争である。戦争が起きていたのだ。「第二次世界大戦のあと、平和憲法のおかげで、日本には戦争がなく、犠牲者はいない」と日本で常に語られ、教えられてきた「常識」が嘘だったことが分かった瞬間だった。

 しかし、その視点で報じたメディアは日本にただひとつも無く、その視点で国民に語った政治家もまた、ひとりもいなかった。
 祖国を知らなければ、主権国家同士でつくる国際社会も、理解できていない。
 北朝鮮はその一か月後、勝手に選び出した五人のかたがただけを帰し、あとのひとは「みんな死んだ、これで拉致の問題はおしまいだ」と言った。横田めぐみちゃんも、拉致したことは認めながら、北朝鮮で自殺したことにしてしまった。
 ところが、たくさんの拉致被害者のかたがたが、今も北朝鮮に囚われて生きている。 小泉首相は二〇〇四年の五月に再び平壌に行って、日本に帰った五人のその子供たち、つまり北朝鮮で生まれた子供たちだけを連れ帰った。五人以外の拉致されたひとたちは、北朝鮮の言うがままに、北朝鮮に置いてきてしまった。
..............


硫黄島の遺骨

 きょう、たった今も、自衛隊、海上保安庁、そして在日米軍が使っている滑走路の正体は、1945年3月、硫黄島の戦いの真っ最中に、日本兵の亡骸を収容することなく、弔うことなく、その顔の上に、胸、腹、足の上に直接、アメリカ軍がコンクリートを流し込んで造った滑走路だ。

 アメリカのその行為を責めるのが、この一文の目的ではない。住民のかたがたは硫黄島に残っていなかった。硫黄島の戦いの指揮を執った栗林忠道・帝国陸軍中将がよく考えられて、住民をすでに小笠原諸島の父島などに移していたから住民は誰もいない。巻き込まれた住民は(軍属を除いては)いない。だから、硫黄島は戦闘員と戦闘員の戦いであり、この滑走路整備を急いだ行為も国際法違反とまでは言い切れない。

ただ、アメリカの行為は無残な行為であることも、確かである。アメリカは、とにかく一日も早く硫黄島に使いやすい滑走路を造りたかったから、そうした人の道を外れた工事をした。これをどう考えるかは、アメリカ国民の問題だ。


 栗林中将の豊かな、丁寧な戦陣訓のなかでも、二つのことを禁じたことが大切だった。二万一千の将兵に向かって、二つのことを禁じられた。
一つ、自決をしてはならぬ。
一つ、万歳突撃をしてはならぬ。


 それを聞いた将兵の中からは反乱の動きがあったという。
 みな、帰れない、ここで死ぬ、家族に会えない。それはわかっているけれども、最後は手榴弾を胸に抱え込んで自決するか、あるいは無防備な万歳突撃をして敵に殺されて、いわば楽に死ねるか。

 まったく楽ではないけれども、最後はそのように死ねると、それだけを楽しみにむしろ戦っているのに、それを禁じるというのはどういうことだと反乱の動きまで起きた。
 すると帝国陸軍の中将でありながら二等兵のところまで一人づつ回っていき、栗林中将は話をされた。どう話されたのだろうか。
 硫黄が噴き出る凄まじい匂いのただなかで、立ち尽くして、いると頭の中に栗林中将の声が聞こえる気がした。

 中将の声は知らない。しかし声なき声が、伝わってくる。幻聴というのではない。不可思議さはない。栗林中将のお考えが、ただ真っ直ぐに、声なき声として伝わってくる。

 おまえたち、アメリカ軍がなぜ硫黄島を取ると思うか。
 大本営は日本の港や工場を爆撃したいからと言っているけれども、アメリカは本当はもう日本の港や工場に関心は薄いぞ。
 そうではなく、爆撃の目的はもはや本土で女と子供を殺すことだ。女と子供を殺す、すなわち民族を根絶やしにされると日本に恐れさせて降伏に導くのが、アメリカ軍が硫黄島を取る本当の理由である。


 だから今から穴を掘ろう、穴を掘って立てこもって、やがて、みな死ぬ。
 みな死に、故郷には帰れない、家族には会えない。
 しかし穴を掘って立てこもったら一日戦いを引き延ばせるかもしれない、最後は負けても、一日引き延ばしたら爆撃が一日、遅れて一日分、本土で女と子供が生き延びる、二日延ばしたら二日分、本土で女と子供が生き残る。
 だから穴を掘ろう。

 栗林中将は実際、それまでの日本軍がサイパンやガダルカナルという南の島で戦うとき、海辺ですぐアメリカ軍を迎え撃ち、万歳突撃をして玉砕していたことを根こそぎ変えてしまった。
 水際では戦わず、島の奥へ引き、地下壕を掘って立て龍もる作戦を決めた。栗林中将より先に赴任していた将兵からは、海軍を中心に強い反対が出た。しかし栗林中将の説得と、揺るがぬ信念をみて、やがて二万一千人が心を一つにして穴を掘り始めた。

硫黄島にぼくが入ってから、一年とすこしの2008年初め頃のこと、栗林家から突然に連絡をいただいた。
「栗林忠連大将中将(硫黄島の戦いの最終段階で中将から戦死後に大将に昇進)の六十三年回忌をやりたいので、それに合わせて講演をしていただけませんか」という。

 ぼくはびっくりして「六十三回忌というのはあるんですか」とお尋ねした。
「不破かな記憶で恐縮ですが、五十回忌で終わりではないですか」と続けると、栗林家ゆかりの方は静かに答えられた。
 「その通りです。本来は六十三回忌など、ありません。だからお坊さんと相談して、六十三『年』回忌としました。どうしてそれをやりたいかというと、実は栗林の家は、地元の長野県松代町で旧家として続いてきましたが、栗林忠道は、悪者だと言われてきたんです。二万人を死に追い込んだ悪い人だと言われていたから、五十回忌どころか一周忌も三回忌も七回忌も何もやったことがないんです」

 ぼくは、声が出ない。なんということか。
 「ところが最近、なぜか沖縄や北海道という遠くからもお手紙をいただいたり、栗林中将にお参りをしたいとお墓に、……お墓は明徳寺というお寺にあるんですが、そのお寺の栗林中将のお墓に行きたいという人が増えてきました。そのように問い合わせをされる方にお聞きしていると、青山さんがいろんな講演の場で、栗林忠道と硫黄島のお話しをされていると分かりました。だから六十三年回忌というものをやってみよう、ということになったんです、そこに講演に来てくれませんか、お寺に講演に来てくれませんか」

 もちろんぼくは飛んでいった。2008年3月23日のことだ。1945年3月17日、大本営が栗林中将を大将に昇進させた(しかし栗林中将が大本営に求めていたのはみずからの昇進などではなく、事実を率直に見ることであったから、栗林さんは喜ばれなかっただろう。だからぼくは終始一貫、中将とお呼びしている)。二十六日には、栗林中将指揮下のおよそ四百人が最期の突撃をし、万歳突撃ではなくアメリカ軍に確実に打撃を与えたうえで、栗林中将も戦死され、硫黄島の戦いが終わった。六十三年回忌は、この日に近い日を選ばれたのだろう。

 するとまさしく北海道から沖縄まで、若い人も含めてたくさんの人がその法要に、戦後六十三年たって初めて行われた栗林中将の法要に、来てくださった。
 その言葉に尽くせないほど記念すべき法要で、祭壇にあったのは、石ころだった。遺骨はないのである。
 「石ころしかないんですね」と思わず、呟いたら、栗林家の現在のご当主がこうおっしゃった。
 「青山さん、ただの石ころではないんです、なんとまあ、アメリカ兵が日本兵を哀れんで、日本という国は負けたからといって遺骨収集すらしない国なんですね、と言ったそうです。お気の毒だから、私たちが石をあげましょうといって米軍の側からくれた硫黄島の石ころなんです」


 ぼくは胸が潰れた。それも、この硫黄島をめぐる現実である。
 しかし同時に、そういう六十三年回忌法要をともかくも開くことができて、若い人もたくさん来た、日本はやっぱり確実に目覚め始めている。
 だから、硫黄島についても、われらのあの島をどうするか、それはもはや、はっきりしていると考えている。
 子供たちが学校教育の一環として行く硫黄島にすることが大切だ。
 沖縄のひめゆりの塔のように観光地にするのではなくて、ちゃんと国が管理したうえで一般国民が入れる島にすべきだと考える。

 そうしても、地下壕の中は、訪れた子供もみんなは入れないかもしれない。
 しかし慰霊碑のところは、必ず、行ける。

 慰霊碑に行ったら子供たちよ、先生たちよ、お水は慰霊碑にかけるだけでなくて、その下の石のところにかけてください。そこから水が染みていって、土に溶けてしまっているご遺骨も、子々孫々からの水を飲むことができる。元気な子々孫々からの水を飲めば、「祖国よ滅びるな、甦れ」と願った、栗林中将以下、二万一千大の願いが、ようやく叶う。

 次の世代の日本国民をそうやって、硫黄島に連れて行けるように、ぼくらは努力しませんか。
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micky358

Author:micky358
何事にも好奇心旺盛な♂です。
船井幸雄さんのファンで、そこで紹介されていた本をよく読みます。

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