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ぼくらの祖国  青山繁晴 著


書籍名:ぼくらの祖国
著者:青山繁晴
出版社:扶桑社

お勧め度:★★★★★



戦後の日本では「祖国」の大切さを教えなくなったが、そのような国は世界中でも日本だけの異常事態なんですね。

確かに「祖国は政府とは違う」という視点は、指摘されるまで、私も明確に認識してなかったように思います。

そもそも、戦争での勝敗は、正邪とは関係ない。
武力等が強いほうが勝っただけの事であり、勝った方は自分が道徳的で正義だったから勝った訳ではない。そして、負けたほうは、自分が邪悪だったから負けた訳でもない。(やくざの張り争いなどは、どちらが正義ともいえなかったり・・・)
だから、負けたほうは(勝った側が正義だったとされる傾向があるので)負けた時にこそ護らなければならないものがあったのだ。民族としての誇り・文化・伝統・・・


この祖国への認識不足が根本原因で、日本はおかしなことになっている。
たとえば北朝鮮の拉致に対する考え方や対応、方針。
硫黄島の戦没者の遺骨収集について
特に硫黄島の栗林忠道中将の話は、胸に迫るものがあります。

栗林忠道中将のお孫さんが、現総務大臣の新藤義孝氏で、安倍総理が硫黄島へ訪問された時に同行されたそうです。


以下は、青山繁晴さんの文章から心に残った部分を抜粋したものです。


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 祖国は、ぼくたちに何かをしてくれたり、何かをくれるわけじゃない。政府は、ぼくらに学校をつくってくれたり、仕事を無くしたときはしばらく失業保険金をくれたりするけれど、政府は祖国じゃない。政府は祖国とは違う。

 政府はどんどん変わる。ぼくたちは、政府を支持したり支持しなかったりできる。つまり、政府は変わるのじゃなくて、ぼくらが変えられる。

 しかし祖国は変わらない。母なる存在だからだ
。それもぼくたちが、たとえば意見の違いでどれほど議論し、対立し、揉みあっても、だれにとっても同じ母がいる。それが祖国だ。
 だから外国人の書いた本に、あるいは外国のことを日本人が書いた本に、祖国を喪って苦しむひとびとの話が出てくるのだ。
 ところが、戦争に負けたあとの日本では、この政府と祖国の違いが分からなくなった。語られなくなった。


 世界には、国際連合に加盟している国だけで193か国ある(2012年12月現在)。およそ200の国々が地球にあるわけだ。
 その国のうち、祖国、そして祖国愛という共通の土台を国民が持たないのは、ぼくらの日本社会しかない。世界を歩けば歩くほど、それが身体に伝わってくる。

 もう一度、思い出そう。その理由は「日本が戦争に負けた」からだと、ぼくらは世代は違っても、学校は違っても、いつでもどこでも教わってきた。

 では世界で、戦争に負けた経験のあるのは日本だけなのだろうか。世界の主要国は、すべて戦争に負けている。もっとも強いアメリカも、1975年にベトナム戦争で負けた。そして2003年から2010年まで続いたイラク戦争ではどうか。ぼくはこのイラク戦争の戦地に入り、アメリカ軍が、軍服も着ていないテロリストに負け、焦りのために、テロリストではないイラク国民をたくさん殺害し、そのために憎みに憎まれて、実質的に大敗する現場を体験した。世界中の国が戦争に負けている。日本がたった一度、戦争に負けたことは、祖国を喪う理由にならない。それは実は思い込みだった。

 なぜ思い込んだのか。

 日本人が愚かだからではない。それまで二千年を超えて、外国に負け国土を占領された経験が一度たりともなかった。これは世界の例外中の例外だ。だから、勝った時ではなく、負けたときにこそどうするか、その練習も訓練もできていなかっただけである。

 何を思い込んだのか。

 アメリカをはじめ勝った側の言う通りにせねばならないと思い込んだのだ。ほんとうは逆である。負けたときにこそ、その民族と国家の先達が営々と築きあげてきた大切なものを護らねばならない。

その理念は、国際法にも存在している。
 国際法のひとつ、ハーグ陸戦条約の四十三条によれば、勝った国は、負けた国の法律を勝手に変えてはいけない。負けた国がその文化と歴史と主権に基づいて法をつくってきたことを尊重する、定めである。

 ぼくらの生活の基礎をつくる憲法について、ぼくは、すべて最初から日本国民が書き直すべきだと長年、語り続けてきた。憲法の内容に賛否を言う前にそもそも、現在の日本国憲法の原案は、日本が戦争に負けたときアメリカ占領軍が英語で書いたという、だれにも動かせない冷厳な事実があるからだ。国際法に背いている。

 国際法は、にんげんが、むごい殺し合いを繰り返しながら血で購ってようやく造り出してきた貴重なルールだ。それを守るということは、ぼくら日本国民が意見や立場の違いを超えて、共通して、掲げることのできる目標ではないだろうか。

 敗戦後の日本国民は、憲法をめぐって「変える」「変えない」で意見が対立し、それを根っこのひとつにして何をめぐっても対立し、あるいは、たとえば世代・年齢の違い、地域の違いを強調して、国民を分けることに熱心だった。
 その意見の違いや、時代あるいは地域の個性をおろそかにせず、尊重しつつ、共有できることを共有する。その、こころの眼を持つことが、日本社会を甦らせる。

夜が明ける前には、明けの星が、青い一滴の光を発する。それを共に見あげることは、掴みあいの喧嘩をしていても、できるのだ。
・・・・・・・・・



 日本の大人が「戦争は二度としてはいけない」と、きみたちに話してきた戦争は実は古い戦争であり、今から戦争するぞという宣言、それは宣戦布告と呼ばれているが、それがあるような戦争、また、その宣言のあとにどっと海岸線に何万もの外国の兵士が押し寄せてくるような戦争は、とっくに古い戦争になっている。

 ほんとうの、ぼくたちの時代の戦争は、このようにわずか二人ほどの工作員が、日本国民に襲いかかって、勝手に自分の国に連れて行き、そのひとの人生を奪うような戦争なのだ

 だから、そもそも、日本の大人が「日本は、あの悲惨な第二次世界大戦のあとは平和になった。だから、この平和を大事にしなさい」と言ってきたのは、真っ赤な嘘だ。
 それが嘘ではないのなら、横田めぐみちゃんたちは日本国民ではないのだろうか。

 重要なのは金正日総書記が、犯罪組織などのせいにせず、国家機関の手で行ったことを明言したことである。

 北朝鮮といえども、国連に加盟している主権国家だ。ひとつの主権国家が、別の主権国家の国民を、国家として拉致し奪い去る。国際社会では、それはすなわち戦争である。戦争が起きていたのだ。「第二次世界大戦のあと、平和憲法のおかげで、日本には戦争がなく、犠牲者はいない」と日本で常に語られ、教えられてきた「常識」が嘘だったことが分かった瞬間だった。

 しかし、その視点で報じたメディアは日本にただひとつも無く、その視点で国民に語った政治家もまた、ひとりもいなかった。
 祖国を知らなければ、主権国家同士でつくる国際社会も、理解できていない。
 北朝鮮はその一か月後、勝手に選び出した五人のかたがただけを帰し、あとのひとは「みんな死んだ、これで拉致の問題はおしまいだ」と言った。横田めぐみちゃんも、拉致したことは認めながら、北朝鮮で自殺したことにしてしまった。
 ところが、たくさんの拉致被害者のかたがたが、今も北朝鮮に囚われて生きている。 小泉首相は二〇〇四年の五月に再び平壌に行って、日本に帰った五人のその子供たち、つまり北朝鮮で生まれた子供たちだけを連れ帰った。五人以外の拉致されたひとたちは、北朝鮮の言うがままに、北朝鮮に置いてきてしまった。
..............


硫黄島の遺骨

 きょう、たった今も、自衛隊、海上保安庁、そして在日米軍が使っている滑走路の正体は、1945年3月、硫黄島の戦いの真っ最中に、日本兵の亡骸を収容することなく、弔うことなく、その顔の上に、胸、腹、足の上に直接、アメリカ軍がコンクリートを流し込んで造った滑走路だ。

 アメリカのその行為を責めるのが、この一文の目的ではない。住民のかたがたは硫黄島に残っていなかった。硫黄島の戦いの指揮を執った栗林忠道・帝国陸軍中将がよく考えられて、住民をすでに小笠原諸島の父島などに移していたから住民は誰もいない。巻き込まれた住民は(軍属を除いては)いない。だから、硫黄島は戦闘員と戦闘員の戦いであり、この滑走路整備を急いだ行為も国際法違反とまでは言い切れない。

ただ、アメリカの行為は無残な行為であることも、確かである。アメリカは、とにかく一日も早く硫黄島に使いやすい滑走路を造りたかったから、そうした人の道を外れた工事をした。これをどう考えるかは、アメリカ国民の問題だ。


 栗林中将の豊かな、丁寧な戦陣訓のなかでも、二つのことを禁じたことが大切だった。二万一千の将兵に向かって、二つのことを禁じられた。
一つ、自決をしてはならぬ。
一つ、万歳突撃をしてはならぬ。


 それを聞いた将兵の中からは反乱の動きがあったという。
 みな、帰れない、ここで死ぬ、家族に会えない。それはわかっているけれども、最後は手榴弾を胸に抱え込んで自決するか、あるいは無防備な万歳突撃をして敵に殺されて、いわば楽に死ねるか。

 まったく楽ではないけれども、最後はそのように死ねると、それだけを楽しみにむしろ戦っているのに、それを禁じるというのはどういうことだと反乱の動きまで起きた。
 すると帝国陸軍の中将でありながら二等兵のところまで一人づつ回っていき、栗林中将は話をされた。どう話されたのだろうか。
 硫黄が噴き出る凄まじい匂いのただなかで、立ち尽くして、いると頭の中に栗林中将の声が聞こえる気がした。

 中将の声は知らない。しかし声なき声が、伝わってくる。幻聴というのではない。不可思議さはない。栗林中将のお考えが、ただ真っ直ぐに、声なき声として伝わってくる。

 おまえたち、アメリカ軍がなぜ硫黄島を取ると思うか。
 大本営は日本の港や工場を爆撃したいからと言っているけれども、アメリカは本当はもう日本の港や工場に関心は薄いぞ。
 そうではなく、爆撃の目的はもはや本土で女と子供を殺すことだ。女と子供を殺す、すなわち民族を根絶やしにされると日本に恐れさせて降伏に導くのが、アメリカ軍が硫黄島を取る本当の理由である。


 だから今から穴を掘ろう、穴を掘って立てこもって、やがて、みな死ぬ。
 みな死に、故郷には帰れない、家族には会えない。
 しかし穴を掘って立てこもったら一日戦いを引き延ばせるかもしれない、最後は負けても、一日引き延ばしたら爆撃が一日、遅れて一日分、本土で女と子供が生き延びる、二日延ばしたら二日分、本土で女と子供が生き残る。
 だから穴を掘ろう。

 栗林中将は実際、それまでの日本軍がサイパンやガダルカナルという南の島で戦うとき、海辺ですぐアメリカ軍を迎え撃ち、万歳突撃をして玉砕していたことを根こそぎ変えてしまった。
 水際では戦わず、島の奥へ引き、地下壕を掘って立て龍もる作戦を決めた。栗林中将より先に赴任していた将兵からは、海軍を中心に強い反対が出た。しかし栗林中将の説得と、揺るがぬ信念をみて、やがて二万一千人が心を一つにして穴を掘り始めた。

硫黄島にぼくが入ってから、一年とすこしの2008年初め頃のこと、栗林家から突然に連絡をいただいた。
「栗林忠連大将中将(硫黄島の戦いの最終段階で中将から戦死後に大将に昇進)の六十三年回忌をやりたいので、それに合わせて講演をしていただけませんか」という。

 ぼくはびっくりして「六十三回忌というのはあるんですか」とお尋ねした。
「不破かな記憶で恐縮ですが、五十回忌で終わりではないですか」と続けると、栗林家ゆかりの方は静かに答えられた。
 「その通りです。本来は六十三回忌など、ありません。だからお坊さんと相談して、六十三『年』回忌としました。どうしてそれをやりたいかというと、実は栗林の家は、地元の長野県松代町で旧家として続いてきましたが、栗林忠道は、悪者だと言われてきたんです。二万人を死に追い込んだ悪い人だと言われていたから、五十回忌どころか一周忌も三回忌も七回忌も何もやったことがないんです」

 ぼくは、声が出ない。なんということか。
 「ところが最近、なぜか沖縄や北海道という遠くからもお手紙をいただいたり、栗林中将にお参りをしたいとお墓に、……お墓は明徳寺というお寺にあるんですが、そのお寺の栗林中将のお墓に行きたいという人が増えてきました。そのように問い合わせをされる方にお聞きしていると、青山さんがいろんな講演の場で、栗林忠道と硫黄島のお話しをされていると分かりました。だから六十三年回忌というものをやってみよう、ということになったんです、そこに講演に来てくれませんか、お寺に講演に来てくれませんか」

 もちろんぼくは飛んでいった。2008年3月23日のことだ。1945年3月17日、大本営が栗林中将を大将に昇進させた(しかし栗林中将が大本営に求めていたのはみずからの昇進などではなく、事実を率直に見ることであったから、栗林さんは喜ばれなかっただろう。だからぼくは終始一貫、中将とお呼びしている)。二十六日には、栗林中将指揮下のおよそ四百人が最期の突撃をし、万歳突撃ではなくアメリカ軍に確実に打撃を与えたうえで、栗林中将も戦死され、硫黄島の戦いが終わった。六十三年回忌は、この日に近い日を選ばれたのだろう。

 するとまさしく北海道から沖縄まで、若い人も含めてたくさんの人がその法要に、戦後六十三年たって初めて行われた栗林中将の法要に、来てくださった。
 その言葉に尽くせないほど記念すべき法要で、祭壇にあったのは、石ころだった。遺骨はないのである。
 「石ころしかないんですね」と思わず、呟いたら、栗林家の現在のご当主がこうおっしゃった。
 「青山さん、ただの石ころではないんです、なんとまあ、アメリカ兵が日本兵を哀れんで、日本という国は負けたからといって遺骨収集すらしない国なんですね、と言ったそうです。お気の毒だから、私たちが石をあげましょうといって米軍の側からくれた硫黄島の石ころなんです」


 ぼくは胸が潰れた。それも、この硫黄島をめぐる現実である。
 しかし同時に、そういう六十三年回忌法要をともかくも開くことができて、若い人もたくさん来た、日本はやっぱり確実に目覚め始めている。
 だから、硫黄島についても、われらのあの島をどうするか、それはもはや、はっきりしていると考えている。
 子供たちが学校教育の一環として行く硫黄島にすることが大切だ。
 沖縄のひめゆりの塔のように観光地にするのではなくて、ちゃんと国が管理したうえで一般国民が入れる島にすべきだと考える。

 そうしても、地下壕の中は、訪れた子供もみんなは入れないかもしれない。
 しかし慰霊碑のところは、必ず、行ける。

 慰霊碑に行ったら子供たちよ、先生たちよ、お水は慰霊碑にかけるだけでなくて、その下の石のところにかけてください。そこから水が染みていって、土に溶けてしまっているご遺骨も、子々孫々からの水を飲むことができる。元気な子々孫々からの水を飲めば、「祖国よ滅びるな、甦れ」と願った、栗林中将以下、二万一千大の願いが、ようやく叶う。

 次の世代の日本国民をそうやって、硫黄島に連れて行けるように、ぼくらは努力しませんか。
・・・・・・・・・



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Author:micky358
何事にも好奇心旺盛な♂です。
船井幸雄さんのファンで、そこで紹介されていた本をよく読みます。

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