スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

パール判事の日本無罪論 田中正明著

パール判事の日本無罪論 田中正明著

東京裁判(極東国際軍事裁判)というのは、日本人に「先の大戦は、日本の軍国主義が原因で、日本が悪かったせいだ」という自虐史観を植えつけるのに決定的な影響を及ぼしていますが、この本はその洗脳を解くのに大いに役立ちます。

先の大戦の戦争犯罪を裁いたと言われる東京裁判の真実は、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」でした。
東京裁判の判事の中で、唯一の国際法の専門家であったパール判事だけが被告を全員無罪と主張されましたが、それは同じ東洋人として同情したからではなく、法律により正しい判断をしたからだったのです。次のようなエピソードも・・・

『博士が再度訪日されたとき、朝野の有志が帝国ホテルで歓迎会を開いた。その席上ある人が
「同情ある判決をいただいて感謝にたえない」と挨拶したところ、博士はただちに発言を求め、起ってつぎのとおり所信を明らかにした。


「私が日本に同情ある判決を行なったと考えられるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したのでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、また、それ以下のものでもない」

 日本に感謝される理由はどこにもない。真理に忠実であった、法の尊厳を守った、という理由で感謝されるならば、それは喜んでお受けしたい、というのである。』

裁判官として、なんと素晴らしい人だと、感嘆せざるを得ません。

また、茶番劇について、下記のような記述もありましたが、なるほど納得です。
「一主役一舞台に整理してみると、つぎのようになる。
松井-中国、
木村一ビルマ、
板垣-シンガポール(イギリス)、
武藤-バターン(フィリピン)、
東条-真珠湾(アメリカ)、
土肥原-満洲、
広田-ソ連。
 なんのことはない、これら七被告の首は、初めから米、英、中、ソ、比などへ割りあてられていたのだ。

もし、七人の誰かが、松岡や永野のように、裁判の途中で死亡したりすれば、つまり配給の予定に狂いが生ずれば、彼らはたちまち代替品を充当したであろう。
被告の数は多かったし、理屈はどのようにでもこじつけられたのだから……」


この本の裏表紙に書かれていた「解説文」と、小林よしのり氏による「推薦文」、そして最後に記載されていた「インドの軍事裁判との比較」を抜粋して記載します。これがこの本の内容を象徴している部分のように思います・・・是非、読んでみてください。


■裏表紙の解説文■

 東京裁判の真の被害者は「法の真理」だった!
判事十一名の中ただ一人日本無罪を主張したパール博士。判事中唯一の国際法学者だった被は、国際法に拠らず、事後法によって行われた裁判を、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」であり、違法裁判であると非難した。
後にその主張は世界中で高く評価された。

 本書は、パール判決文を中心に、マッカーサーも認めた「東京裁判の不正」を問う。
多くの日本人が信じて疑わなかった東京裁判史観と、戦後日本人の歪んだ贖罪意識にメスを入れる不朽の名著を復刊。
靖国神社問題や教科書問題の根はここにある!



■推薦のことば 小林よしのり■

 本書は、第二次世界大戦終結後に行なわれた東京裁判(極東国際軍事裁判)の本質と、この裁判においてただ一人「被告人全員無罪」を主張した、インドのラダ・ビノード・パール判事の理念を最も簡潔、的確に伝えた一冊である。

 著者の田中正明氏は、連合国占頷下の言論弾圧が非常に厳しい中、公表を禁止されていたパール判決文の刊行作業を秘密裏に続け、1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復したまさにその日に、本書のもととなる『パール判事述・真理の裁き・日本無罪論』を出版された。そこまでの執念でパール判決を世に問うて来られたのだ。パール判事と東京裁判の真実に関して、田中氏の著書を超えるような本は他にない。
だからこそ、本書は長年版を重ねてきたのだろうし、これからも若い人が読み継いで行かねばならない本だとわしは思う。

 東京裁判が、国際法の常識から照らして全く野蛮な復讐劇であり、政治的茶番劇にすぎなかったことはもはや世界で認識されているのに、日本では東京裁判を否定すると、未だに「右翼」とか「戦争を肯定する危険思想」と言われてしまう。こんな風潮は、そろそろはっきり打ち破らねはならない。本書はそのために絶対必要だ,

 例えば「A級戦犯」という言葉がある。靖國神社参拝問題では、この言葉の意味も知らずに批判する者がじつに多かったが、これも東京裁判で作られたものだ。
 戦勝国の検察官は、日本が1928(昭和3)年1月1日から1945(昭和20)年9月2日までの間、一貫してアジアを侵略して支配下に置くための陰謀を企て、その謀議に沿って満州事変、日中戦争、太平洋(太東亜)戦争を引き起こしたのだと主張し、これが裁判の最も重要な焦点となった。そして、この「共同謀議」をした犯人として軍人、閣僚など28人を起訴し、これを「A級戦犯」と呼んだ。
 ところがこの28人は思想も信条もバラバラで、お互い会ったこともない人までいた。「A級戦犯」の一人、荒木貞夫陸軍大将は「軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ南だと国内はガタガタで、おかげでろくに計画もできずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と言った。実際、その間に政権は十八回も交替しており、ドイツが、延々と続いたヒトラーの独裁政権下で謀議を重ねたのとは全く違う。東条英機内閣ですら、議会の反発を受けて総辞職に追い込まれている。当時の日本は国会が機能しており、あくまで憲法に基いてりーダーが選ばれていたのであり、「共同謀議」など皆無だった。
 ところが東京裁判法廷はこんなに明らかな証拠を無視し、被告を強引に「有罪」として七人を絞首刑、十六人を終身禁固刑、二人を有期禁固刑に処した。

また、前後して七人が獄死。刑死者と獄死者の十四名が靖國神社に合祀された。
 一方、禁固七年の有罪判決を受けた重光葵・元外相は、釈放後に再び外務大臣(副総理兼任)になり、1956(昭和31)年、日本の国連加盟式典に代表として出席、国際社会復帰の声明文を読み上げ、万雷の拍手で迎えられた。戦勝国に「A級戦犯」とされた者が、戦勝国が作った「国際連合」の場で大歓迎されたのだ。ついでに言えば、この「A級戦犯」を副総理兼外務大臣に起用した総理大臣は鳩山一郎。「A級戦犯を合祀した靖國神社」の首相参拝に大反対した、あの鳩山由紀夫の祖父である。

 死んだ後まで「戦争責任」を問われ、靖國神社から外せとまで言われる「A級戦犯」と、外務人臣として国際舞台に復帰して、握手攻めに遭った「A級戦犯」の差は一体、何だったというのか? これこそ、「A経戦犯」という概念がいかにいいかげんなものだったかという証明であり、ひいては「東京裁判」なるものの本質を如実に表していると言える。死んだ十四人は「裁判」の名を騙(かた)った報復に斃(たお)れた戦死者であり、他の戦死者と同様に、靖國神社に祀られるのは当然のことなのだ。
 パール判事はただ一人、日本が戦争に至った経緯を調べ上げ、「共同謀議」など一切なかったことを証明して「全員無罪」の判決を下した。これは決して日本に対する同情心からではない。裁判官の中で唯一の国際法学者として、この東京裁判を認定し、許容すること自体が「法の真理」を破壊する行為だと判断し、こんな「裁判」が容認されれば、法律的な外貌(がいぼう)をまといながら、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く、野蛮な弱肉強食の世界を肯定することになるという、強い危惧を抱いたためである。
 このパール判事の理念さえしっかり理解して東京裁判を見直していたら、戦後日本の言語空間はもっとまともなものになっていたはずだ。しかも東京裁判を主催したマッカーサー自身が、朝鮮戦争後に米上院で、日本の戦争の動機は「安全保障の必要に迫られてのこと」、つまり自衛戦争だったとはっきり証言し、世界中の学者や政治家も東京裁判への疑念を表明している。
それなのに、日本人は東京裁判の不正を直視しなかった。戦勝国に押しつけられた東京裁判を自ら受け入れたがる、強者による敗者への復讐を受けたくてしようがない……そんな人間があまりにも多すぎるのだ。

 例えば、「日本はサンフランシスコ講和条約第十一条で裁判を受諾したのだから、東京裁判を尊重する義務がある」と主張する者がいる。だが実際の「サンフランシスコ講和条約第十一条」の条文は「Japan accepts the judgements」……「日本は諸判決を受け入れる」とあるだけで、「裁判」そのものを受け入れたわけではない。ところがそれをねじ曲げ、東京裁判を受け入れるのが平和主義者だという異常な解釈を強引に広めようというマスコミ、知識人がいるのだ。

 本書で田中正明氏も書かれているように、戦後、日本人はどんどん異様に、卑屈になっていってしまったとしか思えない。一体、これらの「歪み」はどこからきたのか。
軍部が全部悪かった、自分たちは騙されたのだと、まるで戦前の人問は違う民族であるかのごとくに裁き、戦後の自分たちの拠点を神の視座まで押し上げ、同じ民族を自ら精神的に分断していく。しかも終戦直後よりも、むしろ年が経つごとにその風潮はどんどん加速し、ますます根深いものになってしまったようにわしには思える。
「A級戦犯」という言葉のイメージも一人歩きしてしまい、自民党の政治家までがA級戦犯はとにかく悪い人間で、それを靖國神社に祀ってあるから公式参拝反対などと言っている。彼らはパール判決文のような資料は読んでいないだろうし、おそらく読もうとさえしていない。全くの無知から言っているのだ。

 彼らは自らを「平和主義者」だと思っている。
 だが、軍事力でねじ伏せた相手に、一方的な戦勝国の論理を押しつける「裁判」のどこが平和主義なのだろうか? それは、野蛮な弱肉強食の国際社会を肯定する「軍国主義」に他ならないではないか。

 パール判事は、「真の国際法秩序」を確立したいと願っていた。国際社会を普遍的な法の下に秩序づけなければ、戦勝国の復讐やリンチがまかり通る弱肉強食の世界を超えられない。そう考えていたのだ。パール判事こそが、本物の理想主義者、平和主義者だったのである。

 真の理想主義者、平和主義者の目に映った東京裁判は、野蛮な復讐のための見せしめでしかなかった。それを認めない限り、とても日本は平和主義国とは言えまい。
 東京裁判の論証を試みようとするだけで右翼と決めつけられてしまう戦後日本の風潮……。一体、本当の意昧での平和主義とは何なのか、戦勝国の裁判を受け入れることが平和主義につながるのか。本書を読んで、それをもう一度考えてみてほしい。

 この本には、戦後世代を覚醒させる力がある。


■インドの軍事裁判■

 ここで私は、東京裁判とは全く対照的なインドの軍事裁判について触れてみたいと思う。
 1945年、つまり終戦の年の11月、インドの首都ニューデリーにおいて、大がかりな軍事裁判が聞かれた。被告はセイガー、シャヌワーズ、クローバク・シンの三人の大佐である。
裁判官は英印軍最高司令官マウントバッテン将軍の指揮下にある英人法務官、弁護人団の団長は、国民会議派の最長老バラパイ・デザイ博士、舞台はオールド・デリーの軍法会議。証人として日本から召喚されたのは、沢田廉三大使はじめ、松本俊一、太田三郎氏ら外務省関係者に加えて、ビルマ方面軍参謀長片倉衷(ただし)少将、インド国民軍の創設者藤原岩市中佐、その他ビルマから直接召喚された磯田中将、香川中佐、高木中佐、蜂谷大使など十名、罪名は「叛逆罪」であった。

 太平洋戦争が勃発した1941年12月8日未明、山下奉文(ともゆき)中将の率いる第二十五軍は、シンゴラ、コタバルに敵前上陸して、快進撃をもってマレー半島を南下した。進撃があまりにも急であったため、いたるところでインド兵が捕虜として捕らえられた。
当時F機関と称する、藤原中佐を長とする民間人を交えたひと握りの工作機関が、このインド兵捕虜を編成して、「インド独立国民軍」を創設した。

初代の指揮官としてモハンシン大尉がこれにあたった。難攻不落を誇ったシンガポール攻略戦には、インド国民軍は非常なる勲功をたてた。シンガポールのインド兵を加えて、国民軍は総勢四万五千に膨張した。
ラス・ビハリ・ボースを主席とするインド独立連盟がバンコクに旗揚げするや、国民軍はこの中に移管されたが、やがてインドの革命児チャンドラ・ボースが出現するに及び、国民軍はあげて披の指揮下に入るとともに、ビハリ・ボースの独立連盟も彼の手にゆだねられ、1943年7月4日、自由インド仮政府が誕生した。

 チャンドラ・ボースという偉大なる指導者を得て、インド国民軍は奮いたった。精鋭一万五千に選りすぐり、これを三連隊に分けて徹底的な訓練をほどこした。被告の三人の大佐は、それぞれの連隊長である。1944年4月、ビルマのポパ山の戦闘において、インド国民軍は初めて英軍と交戦し、これに大打撃を与え、緒戦において凱歌をあげた。
 やがてインパール作戦となるのであるが、ボースの率いるインド国民軍は、お粗末な装備ではあったが、三連隊雁行して、祖国へ向かった。合言葉は、
 「ジャーヒン!」(インド万歳)
 「チャロー・デリー!」(征け、デリーヘ)

 であった。国民軍はこれを口々に唱えて、意気まことに軒昂たるものがあった。

 雨期にたたられたインパール作戦は、日本軍の惨憺たる敗北に終わり、終戦がやってきた。チャンドラ・ボースは、終戦の詔勅が発せられてから三日目、45年8月18日、台北飛行場で、搭乗機の事故のため死亡。三連隊長はじめ生き残った国民軍将兵は、ビルマで英軍に捕らえられ、ことごとくニューデリーに護送された。罪名は利敵・叛乱という、もっとも重い犯罪者として。
 筆者は、ニューデリーにおけるこの軍事裁判の模様を、証言台に立った藤原中佐からつぶさに聞き、多くの参考資料を見せてもらった。その詳細は、拙著『アジア風雲録』昭和31年初版、東京ライフ社)に記載してある。

 この裁判は逆に、インドの独立を決定的なものにしてしまった。国民軍は、全インドの民衆から、独立の英雄として迎えられた。彼らは、崇拝するチャンドラ・ボースの許で、祖国解放のために闘ったことを、このうえない誇りとした。ジャーヒン(インド万歳)、チャロー・デリー(征け、デリーヘ)ということばは、全インドの合言葉となってしまった。

ネールをはじめ会議派の指導者も、この裁判を徹底的に闘いとる決意を固め、民衆をその方向に導いた。この裁判において裁かれたものは、英国の二百余年間にわたる侵略の歴史であり、数々の暴虐と圧政と搾取と略奪の事実であり、英軍の不条理であり、非人道性であった。世論はあげて、これを強力に支持したばかりか、インドの民衆は、いっせいに実力行使に起ちあがった。

この裁判の最中に行なわれた、ニューデリー凱旋広場での英軍戦勝VD記念日には、デリーの市民は全戸弔旗を掲げ、商店は店を閉め学生は学校を休み、労働者は職場を離れ、この日をインド民族の悲しい記念日として、独立運動に倒れた志士に黙祷を捧げた。英軍の勝利は、インド民族にとって敗北の日であると彼らは受け止めたのである。裁判を勝ちとるためのストライキや、ボイコットや、デモは、次第に全国的な盛り上がりをみせた。新聞やラジオは、彼告たちの戦場における英雄的行為を報道し、半面、英軍のインド兵に対する偏見や弾圧や残虐な行為をあばきたてた。
焼き打ち事件はいたるところで起き、集会とデモは連日連夜、波状的に行なわれた。

そしてついに警察官やインド兵が動揺しはじめ、流血の惨事はますます拡大した。ホーインレック軍司令官はついにデリーに戒厳令を布いた。騒擾(そうじょう)はデリーだけにとどまらなかった。カルカッタはチャンドラ・ボースの出身地であり、それだけに反英闘争は最も激しく、デリーについでカルカッタにも戒厳令が布かれた。カラチもボンベイ(現ムンバイ)も、ほとんど全インドに不穏の情勢がみなぎった。

 英国としては、二百余年間の主権者としての威信を保持し、インドの統治を磐石ならしめるためには、反逆者に対してはこれを徹底的に懲らしめる必要がある。憎むべき日本と手を結んで仮政府をつくり、堂々と英軍に歯向かい、多数の英人を殺戮し、あるいは捕虜としてはずかしめた国民軍の指導者を、今後の見せしめのためにも、厳罰主義をもって処断する必要がある。英印軍の軍法では、上官侮辱、抗命、通謀、利敵、反逆は、文句なしの統殺到となっている。

 ところが、この全インドに巻き起こったすさまじい民族的抵抗に逢着(ほうちゃく)して、英政府も総督も軍司令官も狼狽した。あわてふためいた彼らは、ついに軍事裁判の最高責任者をして、反乱罪は取り下げる、たんなる殺人暴行罪として起訴すると声明せしめたが、インド民衆の怒りは、それでもなお、治まらなかった。軍事裁判の判決は、三人の被告に対し、殺人暴行罪として15年の禁固刑のいい渡しを行なったが、それは英国の面子上の形式で、軍司令官命により、同日付をもって”執行停山、即日釈放”の宣告を下したのである。

まことに政策的ともいうべき珍妙な裁判に終わった。さすがの大英帝国の威信も、厳格を誇った軍法も、燃えあがるナショナリズムの烽火(ほうか)の前には、あえなく屈したのである。

 もちろん筆者は、この軍法会議と東京裁判を同日に語ろうとは思わない。だが、それにしても、あまりにも情けないのは、日本国民の事大主義である。
 鬼畜米英などといって夜郎自大的になっていた態度もさることながら、ひとたび占領軍が進駐してくるや、占領軍に平身低頭したばかりか、唯々諾々として占領政策に忠誠を誓い、日本の弱体化政策、愚民化政策、骨抜き政策に奉仕し、みずからの手をもって、これを短時日の間に成就した、その情けない態度、そのさもしい根性を、筆者は指摘したいのである。

 国民は騙されたといい、指導者は責任のなすり合いをやり、いわゆる文化人は勝者にこびへつらって、牛を馬に乗り換える。これが当時の風潮であった。日本の官僚、政治家をはじめ、学者やジャーナリストの多くは、戦時中は軍部に、敗戦後はアメリカに、占領が終わると親ソ反米に傾く、それはちょうど、波が来ると、右へ左へ大きく揺れる本の葉舟のようである。あるいは、自分の色をもたない、変色自在なカメレオンのそれである。この風潮は今日なお尾を引いて、日本の社会心理をきわめて不安定なものにしている。
 広島・長崎に投下された原子爆弾の悲惨きわまりない禍害も、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州になだれ込んだソ連軍の侵入も、ともに日本の侵略戦争を終息させるため正当なる手段で、悪いのは日本の軍閥である。八月十五日の終戦は”日本の黎明”であったーーーこのような意見が、日本人自身の口から、臆面もなく堂々と放送されたのである。
同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは、とうてい信じられないことであった。
パール博士は、東京裁判を通して、戦勝者の思いあがった傲慢な態度に痛棒をくらわせると同時に、日本国民よ卑屈になるな、劣等感を捨てよ、世界の指導国民たる自負をもって、平和と正義のために闘ってほしいと訴えている。


われわれは博士の法理論に学ぶとともに、この博士の権力に対する”不服従”の精神を通して、二百年間英帝国の統治下にあって、なおかつインドの宗教と文化の伝承を敢然として守り抜き、少しもこれを損なわなかったのみか、これによって独立を勝ちとったインド民族の、その強靭なる土性骨に学ぶべきではなかろうか。

スポンサーサイト

テーマ : オススメの本
ジャンル : 本・雑誌

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

micky358

Author:micky358
何事にも好奇心旺盛な♂です。
船井幸雄さんのファンで、そこで紹介されていた本をよく読みます。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。