スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小野田さん(フィリピンのルバング島で終戦後29年戦っていた軍人)亡くなる

小野田さんがお亡くなりになったんですね。惜しい人を亡くしました。91歳だったそうです。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

onoda san

onoda san01


このニュースは世界各地で報道されているようですね。
中日新聞に掲載された記事ですが、結構詳しく報道された印象を受けました。

小野田さん01

小野田さん02

以下、中日新聞の記事内容ですが、
「・・・日本と仲良くしてくれる国も大切にしなければ。と切々と訴えた・・・」といった文言をさりげなく滑り込ませているのは、さすが妄想平和主義の左翼新聞ですね・・・困ったものです。

 しかし、小野田さんは、自虐史観に染まった現状の日本の姿を常に憂いておられて、「もっとしっかりしろ日本人。自虐史観などに染まるでない!何のために我々は戦ったのか、正しく認識しろ!」と喝を入れられていたのです。

---------------------------------

部下失い、孤独と闘う 
  小野田さん  頑固、密林の30年支え


小野田 寛郎氏(おのだ ひろお=元陸軍少尉)16日、心不全のため死去、91歳。和歌山県出身。自宅は東京都中央区佃1。親族のみで密葬を行う。

 42年応召。陸軍中野学校二俣分校で訓練を受け、44年、フィリピン・ルバング島に派遣された。74年3月、約30年ぶりに帰還した。

 75年にブラジルに移住し牧場を経営する傍ら、84年から日本各地で「小野田自然塾」を開催、91年には福島県塙町の山林に施設が完成した。96年にはルバング島を22年ぶりに訪問した。体調を崩し、今月6日から入院していた。

評伝
終戦を信じず、フィリピン・ルバング島に潜み、部下と共に戦い続けた。十六日死去した元陸軍少尉、小野田寛郎さんは「頑固な性格」を自負。「だから三十年も戦ったんですよ」。情報将校を養成する陸軍中野学校二俣分校(現浜松市)で培った記憶力と頭の回転の良さは、晩年も衰えなかった。

 部下が死んだ後、帰国までの最後の一年間が「人生で最もつらかった」と振り返った。目に涙をため「人間は一人では生きていけない。家族や友人、日本と仲良くしてくれる国も大切にしなければ」と切々と訴えた。

 一九二二年、和歌山県亀川村(現海南市)生まれ。同分校で特務訓練を受け、四四年にルバング島に派遣。敗戦後も任務解除命令を受けなかったとして、部下三人と共に密林生活を続けた。

 島民の生活を脅かすことも多く、恐れられたが、逃亡や銃撃で部下を次々と失った。七四年三月に冒険家の故鈴木紀夫さんが発見し、現地に赴いた元上官の任務解除命令を受けて帰国。グアム島から七二年に帰還した故横井庄一さんと同様に注目を浴びた。

 「テレビで見て、強い信念と潔い姿にあこがれていた」と話す妻町枝さん(七六)とは、ホテルのロビーで偶然出会ったことがきっかけで結婚。日本の暮らしになじめず、七五年四月、兄がいたブラジルに移住。中西部カンポグランデ郊外に約1200ヘクタールの土地を得て「小野田牧場」を設立した。

 その後、福島県で子供に自然の大切さを教える「小野田自然塾」を開設。晩年は東京都内の自宅に住み、ブラジルの夏場に当たる年末年始に牧場に通った。

 二〇一二年二月には、牧場に住み込みで働く日系人従業員が作ったブラジル風の肉料理をおかずに丼一杯のおかゆを平らげ「肉が好きなんです。フィリピンでは、あまり食べられなかったからね」とはにかんだ。

 配膳に手間取った町枝さんを一喝。大正生まれの日本男児らしい亭主関白さものぞいたが、夫を見つめ 「愚痴を言わない人」と評した町枝さんの表情は常に柔らかく、晩婚ながら長年連れ添った仲の良さがうかがえた。

 牧場では大きな犬をかわいがり、ココナツの実にストローを刺して飲むジュースを好んだ。馬にまたがり、たてがみをなでる様子は牧場主そのむので、小柄な体にカウボーイハットやブーツが似合った。

 「家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で死にたい」。仲間や家族を大事にする姿勢は最後まで変わらなかった。 (リオデジャネイロ・共同)

--------------------------------------------


小野田さんが亡くなられたニュース報道



小野田さんのドキュメント
(NHKの報道番組 良い内容だと思います)


小野田さん靖国神社参拝について英霊の思いを代弁


『ルバング島 戦後30年の戦いと靖国神社への思い』小野田寛郎著より一部抜粋

●「心ならずも戦死された」は、英霊に対する侮辱

靖国の英霊に対して「心ならずも戦死された(本当は戦争に行きたくなかったのに戦争でしんでしまった)」と言う人がいます。しかし、これほど英霊を侮辱した言葉はありません。

皆さんの中には特攻隊の遺書をご覧になった方がいらっしゃるでしょうか。特攻隊の遺書には、「心ならずも(本当は行きたくなかったのに)」なんて書いてありません。私も当時、特攻隊の方々とほとんど同年齢でありました。私がもし当時戦死していて、「心ならずも死んだ」と言われたら、侮辱されていると思って怒ります。

当時の私たちは、死ということに拘泥しない、深く考えない、死んだら神様だと、そういう考えをしていました。何故かと言いますと、戦争には若い者が先頭に立たなければ国の将来がないということをはっきり考えていたからです。お国のために命をかけて働いているので、兵隊は普通の人の半額で映画館に入ることができました。それで、「映画半額、命も半額、死んだら神様だ」などと笑いながら話していました。これが当時の私たちの戦死に対する考え方だったのです。

当時は徴兵令で、満20歳になると身体に異常のない男子はみんな兵役につかなければなりませんでした。だから「心ならずも」と言うのかもしれませんが、それは当時の私たちの気持ちを表した言葉ではありません。好きで兵隊になったわけではなくとも、多くの人間は国のために死ぬ覚悟を持っていました。戦争に負けた後、戦後の教育で洗脳され、本当の日本人の気持ちを理解できなくなった人が、そういうことを言うのだと思います。


小野田さんが従軍慰安婦の欺瞞性について語るという動画もあります

従軍慰安婦の問題については、正論1月号に書かれたものがネットにアップされていますね。
本当に、この従軍慰安婦の欺瞞性には困ったものです。
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html

・・・・
これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。
「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。


なお、記事の一部は、下記ブログから参照させていただいています。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5329.html
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

micky358

Author:micky358
何事にも好奇心旺盛な♂です。
船井幸雄さんのファンで、そこで紹介されていた本をよく読みます。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。