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マリア・ルス号事件 日本で最初の国際裁判?

竹島の領土問題で、日本が国際司法裁判所(ICJ)へ提訴をするようですね。

しかし結局、韓国が提訴に同意しないため、日本の単独提訴という形になり、結局、審議されないようですが……

どうなるのか関心があったのでネット検索していたら、下記記事が目にとまりました。

 明治維新後の日本では、横浜港に停泊していたマリア・ルス号(ペルー船籍)内の中国人を奴隷であるとして日本政府が解放したことが、ペルーとの外交問題に発展しました。
この「マリア・ルス号事件」は、ロシアを仲介とする国際裁判によって日本側の主張が認められ、解決しました。このような経験が20世紀の国際裁判所の設置につながったのです。

(日本経済新聞朝刊ニュースクール2012年8月25日付 より、一部抜粋)

マリア・ルス号事件?
日本政府が中国人の奴隷を開放?
ペルーとの外交問題?
ロシアが調停?


知らない事ばかりだったので、どんな事件なのか調べてみたら、

明治初期に、こんな事件があったとは……明治維新の人々の偉大さに感動する事件でした。

この外務卿副島種臣と、現在の副知事にあたる大江卓(なんと当時、25歳だったそうです)の、高い志・トラブルから逃げない勇気・判断力・行動力はすばらしいです。

日本の政治家・官僚の人たちには、自分たちの判断が日本の将来を左右するんだ。という高い志をもって、事にあたって欲しいです。マリア・ルス号事件における副島種臣と大江卓のような志を持って(この時の江藤新平や陸奥宗光ではなく)……


この話は、是非、多くの人に知ってもらいたいと思える内容ですので、その解説を転載します。

是非、ご覧になってください。



マリア・ルス号事件解説  (神奈川県『タンキョー マリア・ルス号ものがたり』より)

なお、タンキョーとは、Thank you のことです。(Thank youの発音は、こう聞こえますね。Come here を カメヤと覚えたのと同じです。)

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 明治5年(1872年)6月、横浜港に停泊していた南米ペルー船籍マリア・ルス号から、一人の中国(清国)人が海に身を投じました。「マリア・ルス号事件」の発端ともいうべき出来事でした。

 明治5年のこの年は、長い鎖国を経て、日本が諸外国に扉を開いた「横浜開港(1859年)」から13年目にあたります。文明開化の波に乗って、横浜の地に、日本初の鉄道が開通し、ガス灯が燈った年でした。しかし一方では、維新の混乱で、明治新政府にとっては、舵取りが難しい時期でもありました。

 マリア・ルス号から海に身を投じた中国人は、幸いにも近くに停泊していた英軍艦アイアン・デューク号に救助されました。そこで彼は、マリア・ルス号から逃げ出してきたこと、船内では十分な食事を与えられず、過酷な扱いを受けており、自分と同じ境遇の中国人が230余人乗っていることなどを、必死に訴えました。

 中国人の身柄を引き取った神奈川県は、早速マリア・ルス号の船長リカルド・ヘレイラを召喚して事情を問いただしましたが、中国人は移民契約を交わした船客であるという船長の説明を受け入れて、逃げてきた中国人を船長に引き渡してしまいます。日本にとってペルーは条約未済国であり、外交問題に発展することを恐れたことも理由の一つでした。

 しかし、数日後にはまた、別の中国人が海に身を投じます。この紙芝居の冒頭に登場する中国人(郵安・とうあん)です。英国は、マリア・ルス号に奴隷運搬船の疑いありと、明治政府に調査を求める外交文書を提出しました。

 この事件の背景には、米国の奴隷解放宣言(1862年)に端を発した、世界的な奴隷制度廃止の流れがありました。労働力が圧倒的に不足した米国・欧州諸国とその植民地になっていた国々など(ペルーほか)では、アジア系の単純労働者(クーリー・苦力)を低賃金で過酷な労働に従事させました。奴隷制度が廃止されたとはいえ、彼らの境遇は奴隷と変わらなかったのです。

 文書を受け取った明治政府では、司法卿江藤新平や神奈川県令(現在の知事)陸奥宗光らが、この事件はペルーと中国の問題であって、日本が乗り出せば越権行為として諸外国から非難される恐れがあると反対しましたが、外務卿副島種臣はその反対を押し切って裁判を開くことを決めました。そこで、県令陸奥宗光は職を辞し、神奈川県参事だった大江卓が権令(現在の知事)に任じられて事件を担当することになりました。

 大江卓はマリア・ルス号の中国人全員を上陸させて保護し、神奈川県庁内で自らを裁判長とする臨時法廷を開きました。判決は、中国人を解放することを条件にマリア・ルス号の出航を許可するというものでした。しかし、船長はこれを不服として、更に移民契約の履行を訴えました。中国人をマリア・ルス号に戻すように求めたのです。

2度目の裁判が開かれました。船長の弁護人ディケンズが日本の公娼制度を盾に、日本には奴隷制度を非難する資格はないと反論しましたが、大江卓は人道に反する移民契約は無効であると、船長の訴えを退け、明治5年9月27日、解放された中国人は、全員帰国することができました。

 その後、ペルー側の訴えにより、第三国であるロシア帝国での国際仲裁裁判に発展しますが、明治8年に日本側の措置は正当なものであったとする判決が下されて、事件は終息しました。この裁判を契機に、明治5年10月には、公娼を廃止する芸娼妓解放令が公布されました。

また、横浜在住の中国人たちは、大江卓と外務卿副島種臣に対して、同胞の危難を救った感謝を込めた大旆(たいはい)を贈りました。この2つの大旆は、現在、神奈川県立公文書館に所蔵されています。

監修/石橋正子

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江藤新平や陸奥宗光は有名ですが、副島種臣や大江卓は知りませんでした。
マリア・ルス号事件の解説を見ると、この時の副島種臣や大江卓の判断・行動は、すばらしかったですね。

また、どこかに、この話は中国の教科書にも記載がある……と書かれていましたが、本当なのでしょうか?
中国は、南京大虐殺とか抗日記念館とか、国策として反日を煽っている。と思っていたので、意外な感じを受けました。このマリア・ルス号事件ような話が広く知られる事で、国民感情として友好な関係が築ければ良いのですが……

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船井幸雄さんのファンで、そこで紹介されていた本をよく読みます。

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